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領域を買う:質入れとキーブルクの代価

領域政策の手段としての質入れ(Pfandschaft)

14世紀半ばから15世紀末までの間に、チューリッヒはアルプス以北で最大級の都市国家の一つを築き上げた。スイス歴史辞典(HLS)は、その主要な獲得を列挙している。1358年のツォリコン、1384年のキュスナハト、メイレンおよびヘンク、1385年のタールヴィル、1402年のグライフェンゼー、1408年のグリューニンゲン、1409年のレーゲンスベルクという大きな領主権、1424年から1442年まで、そして1452年から再びキーブルク、1434年のアンデルフィンゲン、1496年のエグリザウ、さらに1467年と1484年のヴィンタートゥールとシュタイン・アム・ラインの両都市であり、後二者はその特権を保持した。1同項目の言葉によれば、これらの領域は購入または質入れ(Kauf oder Pfandschaft)によって獲得された。2

質入れ(Pfandschaft)は、中世後期の領主がその領主権に基づいて資金を調達する典型的な形態であった。資金を必要とする領主、とりわけハプスブルク家の諸公は、貸付の担保として領主権、代官管区または一連の権利を債権者に移転し、債権者は債務が返済されるまでその権利を行使し収入を収取した。領主権は法形式上は受戻しが可能なままであったが、スイス歴史辞典は土地質権に関する項目において、受戻しは実際にはしばしば不可能であることが判明し、債務を負った領主が富裕な都市に領主権全体を失ったと述べている。3国王が帝国の権利を都市や領主に質入れした帝国質入れ(Reichspfandschaften)は、市の収入と権力のとりわけ重要な源泉であった。スイス歴史辞典は、これを都市がその収入を獲得した主要な経路の一つに挙げている。4チューリッヒにとって、質入れには二つの利点があった。それは、征服に伴う暴力と政治的コストなしに都市が領域を獲得することを可能にし、同時に、都市が帝国の裁判所や盟約者団議会の前で防御しうる法的権原を生み出したのである。

これらの獲得の資金調達には、金貨による多額の資金が必要であった。都市はそれを前述の手段によって調達した。すなわち、臨時税、その収入を担保とする年金の販売、そして富裕な市民からの借入である。新たに獲得された領域は、その後さらなる借入の担保となり、その収入(十分の一税、地代、裁判上の罰金および通行税)が利息の支払いに充てられた。こうして領域拡大はレバレッジを効かせた事業であり、その危険は、質権設定者が質を受け戻す可能性、あるいは戦争によって都市がその収入を奪われる可能性にあった。

キーブルク、1424年

キーブルク伯領の購入は、この仕組みを例証している。この地域最大の領主権であった同伯領は、13世紀に旧キーブルク伯家が断絶した後、ハプスブルク家の手に渡っていた。オーストリア公は1370年頃、その一部をキーブルク城の地元の代官に質入れした。1384年、質全体はトッゲンブルク伯家に移り、そこから相続によってトッゲンブルク家出身のモンフォール伯夫人クニグンデに渡った。51424年2月9日、チューリッヒは伯夫人クニグンデに8,750グルデンを支払うことによってこの質を取得した。この単一の取引によって、都市はその領域をほぼ倍増させたのである。翌日、都市はリュムラング家の領主からリュムラングの代官管区も購入した。6

キーブルクの獲得は信用取引であった。チューリッヒが購入したのは質権者の地位、すなわちハプスブルク家が受け戻すまで伯領を保有する権利であった。8,750グルデンという金額は、この質が担保していたハプスブルク家の債務額であった。したがって都市の権原は不安定なものであり、その後の20年間がそれを実証した。旧チューリッヒ戦争の間、チューリッヒは1442年にハプスブルク家の国王フリードリヒ3世と同盟を結び、それによってグラット川以北のキーブルク伯領の部分はフリードリヒ3世に移ることとされた。スイス歴史辞典はこれに応じて、キーブルクに対するチューリッヒの支配の第一期を1424年から1442年までとしている。78戦後の1452年、チューリッヒは伯領を回復した。オプフィコンの記述によれば、チューリッヒは新たな質入れ額として、オーストリア公に対する1万7,000グルデンの債権を免除することによってこれを行った。9キーブルクの価格は30年間でほぼ倍増したのであり、これは領主権の価値の上昇と戦争の費用の双方を示す尺度である。

キーブルクはチューリッヒの代官管区の中で最大のものとなり、1798年までその地位を保ち、城に駐在する代官(Landvogt)によって統治された。チューリッヒはまた、キーブルクおよびリュムラングとともに獲得した小規模な地区を、後にObervogteien(上級代官管区)と呼ばれる別個の代官管区に再編した。そこにはシュヴァメンディンゲン、リュムラングおよびNeuamt(ノイアムト)が含まれていた。10ハプスブルク家が質を受け戻すことは遂になかった。時が経つにつれ、そして遅くとも16世紀までには、質入れされた伯領は実際上都市の財産となり、質入れと売却の区別はその意義を失った。

ヴィンタートゥール、1467年

ヴィンタートゥールの獲得も同じ型に従った。オーストリアに忠実なハプスブルク家の町であったヴィンタートゥールは、1467年にオーストリア公ジークムントによって1万グルデンでチューリッヒに質入れされた。11チューリッヒ州立文書館の記録には、1467年8月31日の質入れ証書と、1467年9月14日の公のためのヴィンタートゥール市に対するチューリッヒ市の債務証書の双方が含まれている。12慢性的に資金不足であり、盟約者たちとの抗争に苦しんでいたジークムント公は、もはや防衛できない町を質入れすることによって現金を調達した。チューリッヒの側は、戦争なしにその領域第二の町へと支配を拡大した。ヴィンタートゥールの取引は、こうした取決めの二重の性格を示している。都市は諸侯の債権者であると同時に、質入れされた臣民の新たな領主でもあり、その債務証書は決済の一部として流通したのである。

これらの取引がチューリッヒのその後の歴史に対して持つ意義は大きい。チューリッヒという都市国家は、大部分において信用の産物であった。その領域主権は、困窮した領主に対する一連の貸付、すなわちその領主権を担保とし、決して返済されることのなかった貸付を通じて獲得されたのである。現代の観察者がスイスを金融力と政治的主権が密接に絡み合った国として描くとき、彼らは、チューリッヒにおいては15世紀に遡る関係を描いているのである。

注

  1. HLS, “Zürich (Kanton)”, 領域形成に関する部分はMeinrad Suter執筆, https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/007381/. ↩
  2. HLS, “Zürich (Kanton)”(前掲)。 ↩
  3. HLS, “Grundpfandrecht”(前掲)。 ↩
  4. HLS, “Öffentlicher Haushalt”(前掲)。 ↩
  5. Stadt Opfikon, “Vogtei, Recht und Gericht”, https://www.opfikon.ch/geschichte/2377. ↩
  6. Stadt Opfikon, “Vogtei, Recht und Gericht”(前掲)。チューリッヒが「durch die Bezahlung von 8750 Gulden an Gräfin Kunigunde」質を取得したと述べている。 ↩
  7. HLS, “Zürich (Kanton)”(前掲)。キーブルクについて「1424–1442 und wieder 1452」としている。 ↩
  8. “Alter Zürichkrieg”, ドイツ語版Wikipedia, https://de.wikipedia.org/wiki/Alter_Z%C3%BCrichkrieg: 1442年6月17日にアーヘンで締結された条約により、チューリッヒはグラット川以北のキーブルク伯領の部分をフリードリヒ3世に引き渡すこととされ、フリードリヒ3世はその見返りとしてトッゲンブルクとウツナッハ伯領をチューリッヒのために獲得することを約した。キーブルクは1452年に買戻しによってチューリッヒに戻った。 ↩
  9. Stadt Opfikon, “Vogtei, Recht und Gericht”(前掲)。 ↩
  10. Stadt Opfikon, “Vogtei, Recht und Gericht”(前掲)。 ↩
  11. HLS, “Winterthur”(Meinrad Suter), 2015年8月28日版, https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/000157/2015-08-28/: 「Für 10'000 Gulden verpfändete sie Herzog Sigismund von Habsburg 1467 an die Stadt Zürich」。 ↩
  12. Staatsarchiv Zürich, C I, Nr. 3153(“Verpfändung der Stadt Winterthur an die Stadt Zürich durch Herzog Sigmund von Österreich”, 1467.08.31)およびC I, Nr. 3165(“Schuldverschreibung der Stadt Zürich gegenüber der Stadt Winterthur für Herzog Sigmund von Österreich”, 1467.09.14)。目録上の表題はsuche.staatsarchiv.djiktzh.chの検索一覧で確認したものであり、詳細ページ自体は自動取得が遮断されていた。 ↩

本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。

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