学者としてのオレッリ家
18世紀以降、Orelli家は注目すべき一連の学者を輩出した。ヴェーデンスヴィルの公証人の息子であったJohann Konrad Orelli(1770–1826)は、1794年にチューリッヒのカロリヌムの聖史教授となり、1796年には倫理学・自然法教授となった。彼は牧師および参事会員を務め、1815年–1816年にはカロリヌムの学長を務め、キリスト教護教家アルノビウスの校訂版を刊行した(ライプツィヒ、1816年–1817年)。1 その従兄弟Johann Caspar von Orelli(1787–1849)は、当代を代表する古典文献学者の一人となった。1807年から1814年までベルガモの改革派教会の牧師を務め、クールの州立学校で教えた後、1819年にカロリヌムの雄弁術・解釈学教授となり、1831年からは大学の図書館長を務めた。彼はキケロ全12巻(1826年–1838年)、ホラティウス、プラトンおよびタキトゥスを校訂し、1827年にバーゼル大学から名誉博士号を授与され、ミュンヘン、ベルリンおよびウィーンの各アカデミーの通信会員となった。2
Johann Caspar von Orelliのベルガモ時代は注目に値する。ベルガモは、チューリッヒの絹商館が代理人を置いていたロンバルディアの都市の一つであり、彼が1807年から1814年まで奉仕した小さな改革派教会は、カトリックの都市におけるプロテスタントの少数派として存在していた。こうして、ロカルノ人亡命者の子孫が、祖先がロンバルディア語圏のロカルノを去ってから2世紀半の後に、ロンバルディアの都市のプロテスタントに牧師として仕えたのである。Johann Casparはまた、1833年のチューリッヒ大学創設の推進者でもあった。同大学の最初の講座の大部分は彼の提案に基づいて充足され、彼は1849年に没するまで同大学で教えた。3
法律家と公務員
19世紀のOrelli家には、スイス私法を形作った法律家が含まれていた。Aloys von Orelli(1827–1892)は1853年からチューリッヒ大学で教え、後にドイツ法の正教授となった。彼はドイツ法およびスイス法における家族について(1859年)、また著作権の国際的保護について(1887年)著述し、1862年から1869年まで州裁判所の裁判官を、1869年から1878年まで保守派の大参事会議員を務め、1877年にはスイス法律家協会(Schweizerischer Juristenverein)の会長に選出された。4 私法と著作権に対する彼の関心は、知的財産、家族法および相続法が実務上の重要性を増しつつあった商業社会の需要を反映していた。
Heinrich von Orelli(1783–1860)は、司法と政治の経歴をたどった。彼は1808年からチューリッヒの地区裁判所裁判官、1815年から1839年まで大参事会議員、1819年から1843年までの期間の大部分においてチューリッヒ最高裁判所の裁判官、そして1829年–1830年には連邦議会への代表を務めた。1809年、彼はチューリッヒの盲人・聾者施設を共同で創設した。5 Muralt家もまた、科学と教育に貢献した。医師であり解剖学者であったJohannes von Muralt(1645–1733)、Pestalozziとともに働き、1810年にサンクトペテルブルクの牧師となった神学者・教育者Johannes von Muralt(1780–1850)、Corpus Reformatorumにおけるツヴィングリ著作集の共同編者である歴史家Leonhard von Muralt(1900–1970)、そして生理学者Alexander von Muralt(1903– 1990)である。6
注
- Otto Hunziker, “Orelli, Johann Konrad (der ältere)”, in Allgemeine Deutsche Biographie 24 (1887), 416–417, https://de.wikisource.org/wiki/ADB:Orelli,_Johann_Konrad(2026年10月4日閲覧)。 ↩
- Edgar Bonjour, “Orelli, Johann Caspar”, in Neue Deutsche Biographie 19 (1999), 585–586, https://www.deutsche-biographie.de/sfz73729.html(2026年10月4日閲覧)。同項目は、Johann Konrad Orelli(1770–1826)をその従兄弟として挙げている。 ↩
- Edgar Bonjour, “Orelli, Johann Caspar von”, in Neue Deutsche Biographie 19 (1999), 585–586, https://www.deutsche-biographie.de/sfz73729.html(2026年10月5日閲覧):1807年から1814年までベルガモの「kleinen ref. Gemeinde」の説教者。32歳で雄弁術・解釈学教授としてカロリヌムに招聘される。「1833 wurde die Zürcher Hochschule eröffnet」、その創設は彼の主たる目標であった。「Die meisten Professuren wurden nach O.s Vorschlägen besetzt」。1849年1月6日に没するまで教授。Keller, “Der Einfluss der Hugenotten”(前掲)。ベルガモにおけるチューリッヒ商館の代理人について。Otto Hunziker, “Orelli, Johann Caspar von”, Allgemeine Deutsche Biographie 24 (1887), 411–416も参照。 ↩
- Wikipedia, “Aloys von Orelli”, https://en.wikipedia.org/wiki/Aloys_von_Orelli(2026年10月4日閲覧)。 ↩
- Wikipedia, “Heinrich von Orelli”, https://en.wikipedia.org/wiki/Heinrich_von_Orelli(2026年10月4日閲覧)。 ↩
- Bonjour, “Muralt, von”(前掲)。同項目は、Johannes(1645–1733)を「Arzt und Anatom」、Johannes(1780–1850)を「Mitarbeiter Pestalozzis und seit 1810 Pfarrer der deutsch-ref. Kirchengemeinde in St. Petersburg」、Alexander(1903–1990)を「ein bedeutender Physiologe」と記述している。Wikipedia(ドイツ語版), “Leonhard von Muralt”, https://de.wikipedia.org/wiki/Leonhard_von_Muralt(2026年10月5日閲覧。最後の手段として使用):「Mitherausgeber der Werke von Ulrich Zwingli im Corpus Reformatorum」。 ↩
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