議会、訓令、議決録
盟約者団議会は、議会としての権限をもたない使節の会議であった。各州(カントン)は1名または2名の代表を送り、代表は書面の指示に従って投票した。決議録(Abschied)に記録された決定は、各州政府の承認を得た場合にのみ州を拘束した。共同支配地に関する事項は、それを共有する州によって、実際には多数決で決定されたが、少数派は自らの根本的利益に関わる決定の受入れを拒否することができ、現に拒否した。1 ロカルノについては、票の計算は単純であった。12の支配州のうち、7州がカトリック、4州が改革派であり、グラールスは分裂していた。厳格な多数決であれば、カトリック諸州はロカルノの異端者の処罰を命じることができたであろう。他の改革派の州の支持を当てにしていたチューリッヒは、信仰の問題について多数決の決定を受け入れることを拒否した。2
このような膠着状態に対する手続上の答えは仲裁であった。14世紀以降の盟約者団の同盟協約は、盟約者間の紛争は当事者が選んだ仲裁人によって解決され、仲裁人の意見が一致しない場合には第三仲裁人が裁定すると定めていた。歴史辞典は、仲裁を、盟約者団を構成する個々の同盟を結ぶ本質的な連結環と描写している。3 しかし宗派間の紛争においては、宗教改革以後、この手続は用いることが難しくなっていた。同じ項目は、旧盟約者団が、1555年のアウクスブルク宗教和議を有する神聖ローマ帝国とは異なり、州の間で宗派の領域的分離を導入しなかったため、宗派間の紛争が1656年と1712年の戦争まで繰り返し生じ、その後に宗教上の争いについて同数代表制の仲裁裁判所が再導入されたことを指摘している。4 1554年のロカルノ事件は、この歴史の中間に位置する。それは、盟約者団の諸制度が戦争なしに解決することになお成功した宗派紛争の一つであった。
1554年7月および11月の盟約者団議会
ロカルノの改革派の事件は、1554年7月と11月にバーデンで開かれた二度の盟約者団議会で審議された。5 これらの会期の間およびその前後に、ロカルノの人々自身は増大する圧力にさらされていた。文献に要約されている記述によれば、当局は1554年春、ロカルノのすべての住民に対し、カトリックの典礼に従って告解をし聖体を拝領することを求めた。これにより、改革派は従うか、自らの立場を表明するかのいずれかを迫られた。6 1554年7月の信仰告白は、共同体の回答であった。それがチューリッヒ出身の代官によってチューリッヒに送付されたことで、双方にとって事の重大性が高まった。
カトリック諸州は、ロカルノの人々が教会に復帰するか、さもなければ処罰されることを要求した。彼らを支持したのは、ロカルノをロンバルディアの境界における異端の橋頭堡とみなした教皇庁であり、また旧来の文献によれば、1535年以来ミラノ公国を支配し、マッジョーレ湖畔のプロテスタント共同体を疑いの目で見る独自の理由をもっていたミラノのスペイン政府であった。7 チューリッヒは、共同体を自らと同じ宗派の教会として擁護した。その神学者たち、とりわけツヴィングリの後継者であるハインリヒ・ブリンガーは、終始チューリッヒの参事会に助言した。歴史辞典は、最終決定を、長く困難な論争の後に緊迫した雰囲気の中で下された仲裁裁定と描写し、その内容を、改革派に対して信仰の撤回か移住かの選択を課したものと要約している。8 その裁定の条件と、それがどのように適用されたかが、次節の主題である。
注
- Andreas Würgler, "Dieta federale", DSS, 2014年9月25日版, https://hls-dhs-dss.ch/it/articles/010076/(「Gli inviati esprimevano l'unico voto del proprio cant. in base alle istruzioni di quest'ultimo」。決議録は「portati a casa」、すなわち批准のために州当局に提出されなければならなかった。「Solo per gli affari riguardanti i baliaggi comuni [...] veniva applicato il principio maggioritario」)。Andreas Würgler, Die Tagsatzung der Eidgenossen. Politik, Kommunikation und Symbolik einer repräsentativen Institution im europäischen Kontext (1470– 1798) (Epfendorf: Bibliotheca Academica, 2013)。共同支配地の体制については第A.II章参照。 ↩
- Meyer, Die evangelische Gemeinde in Locarno(前掲)。Mark Taplin, The Italian Reformers and the Zurich Church, c. 1540–1620 (Aldershot: Ashgate, 2003)。 ↩
- Marcel Senn and Elisabetta Fiocchi, "Schiedsgericht", HLS, 2021年6月21日版, https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/009602/(「Das Schiedsgericht erwies sich als wesentliches Verbindungsglied zwischen den einzelnen Bündnissen der Eidgenossenschaft」)。 ↩
- Senn and Fiocchi, "Schiedsgericht"(前掲)(「Da die alte Eidgenossenschaft im Gegensatz zum Reich (Augsburger Religionsfrieden 1555) keine territoriale Abgrenzung der Konfessionen zwischen den Ständen einführte, kam es immer wieder zu konfessionellen Zwistigkeiten」)。 ↩
- Crivelli, "Duno, Taddeo"(前掲)(1554年7月および11月のバーデンにおける二度の盟約者団議会)。 ↩
- Miriam Nicoli, "Muralto, Barbara", DSS, 2026年1月27日版, https://hls-dhs-dss.ch/it/articles/062270/(「Nel marzo 1554 venne imposto a tutti i Locarnesi l'obbligo di partecipare alla confessione e alla comunione cattoliche」)。 ↩
- Nicoli, "Muralto, Barbara"(前掲)(教皇大使の役割)。Taplin, The Italian Reformers and the Zurich Church(前掲)。Adriano Prosperi, Meyerのイタリア語版への序文(前掲)。1535年からのミラノにおけるスペインの支配については第A.IV章で述べる。 ↩
- Crivelli, "Duno, Taddeo"(前掲)(長く困難な論争の後に緊迫した雰囲気の中で下された最終仲裁裁定は、改革派に対し、信仰を撤回するか移住するかの選択を突きつけた)。 ↩
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。