1639年のミラノ協約(カピトラート・ディ・ミラノ)
最もしばしばCapitolato di Milano(ミラノ協約)と呼ばれる条約は、1639年9月3日にスペインがグラウビュンデンの三同盟と締結したものである。それは、1620年の同谷のプロテスタント虐殺(Sacro Macello)に端を発し、三十年戦争の間にスペイン、フランス、ヴェネツィアおよびオーストリアを巻き込んだヴァルテッリーナをめぐる紛争を終結させた。1この協約により、ヴァルテッリーナ、ボルミオおよびキアヴェンナはグラウビュンデンの支配に復帰し、1797年までその下にとどまった。その見返りとして、グラウビュンデンはヴァルテッリーナにおいてカトリックを唯一の宗派として承認し、プロテスタントの恒常的な居住を禁止した。また、ミラノとチロルおよびオーストリアのハプスブルク領との間におけるスペイン軍の通過権をスペインに認めた。2この協約は、ティチーノの代官管区との条約ではなかった。それはグラウビュンデンと東部の諸峠に関わるものであった。本章にとってのその重要性は二点にある。第一に、それはミラノが北の国境を統治した方法を示している。すなわち、アルプスの各隣国と、政治的、宗教的、軍事的および通商的条項を組み合わせた二国間協約を結び、新たな主権者ごとにそれを更新・確認するという方法である。1639年の協約は、ミラノがスペインからオーストリアに移った後、1726年10月24日に、オーストリアのミラノ総督ダウン伯によってグラウビュンデンの使節とともに確認・批准された。3第二に、それは、ミラノ市場へのアクセスがアルプスのすべての隣国に共通の関心事であり、諸峠が単一の外交体制の中で互いに競争していたことを示している。グラウビュンデンに認められた関税上の譲歩はゴッタルドから交通をそらしうるものであったため、盟約者団はグラウビュンデンの条約を注意深く見守っていた。
オーストリア領ミラノと18世紀の国境条約
1706年以降のオーストリアの支配の下で、ミラノ政府は財政を改革し、新たな土地台帳(マリア・テレジアのcatasto)を導入し、間接税の総括請負であるFerma generaleを通じて関税の徴収を集中化した。これらの改革は国境のより厳格な管理をもたらし、盟約者団と代官管区はそれを自らの交易に対する脅威とみなした。4盟約者団の代官管区とオーストリア領ロンバルディアとの境界は、1752年のヴァレーゼ条約によって確定された。この条約は、古い領域紛争を解決し、激しい密輸に対処するために、同年夏に同市で交渉されたものである。条約は、とりわけレッタイオーラの高山牧草地をミラノの管轄に移し、それが引いた線はその後ほとんど変わっていない。5正確な国境は関税制度の前提条件であった。それは、ミラノの監視兵がどこで商品を止めることができ、どこで盟約者団のdazioが適用されるかを決定した。したがって、それはまた密輸がどこで始まるかをも決定したのである。
盟約者団の協約は、スペイン期とともに終わった。その最後のものは1705年にフェリペ5世と締結されたが、オーストリアがミラノを征服した1706年までしか効力を有せず、盟約者団全体と新たな協約を締結しようとするオーストリアの試みは、諸州の利害が分かれたため1711年に失敗した。その後、1796年のフランスによるロンバルディア侵攻、チザルピーナ共和国の創設、そして第C.I章で述べる1798年の代官管区における革命が、公国と盟約者団の代官管区の双方を一掃した。新たなティチーノ州は、ロンバルディアとの通商関係を承継したが、条約は承継しなかった。イタリア王国、1815年以降のオーストリア領ロンバルド=ヴェネト王国、そして1861年以降のイタリア王国とのその交易は、連邦が締結した新たな協定によって規律された。6
注
- 1620年7月19日から23日の間の約600人のプロテスタントの殺害については HLS, art. "Valtellina"(Guido Scaramellini, 2015年1月5日版), https://hls-dhs-dss.ch/it/articles/007135/2015-01-05/。 ↩
- HLS, art. "Valtellina"(前掲):「Nel 1639 il capitolato di Milano restituì V. e contadi ai Grigioni」、「riconoscendo la sola confessione catt. e vietando la residenza stabile dei rif.」。1797年10月10日までのグラウビュンデンの支配についても同項目。 ↩
- 1726年10月24日の確認。印刷版(前掲)の表題 "Confirmata, e ratificata a. 24 ottobre 1726 tra Conte di Daun, principe di Tiano, e gli ambasciadori grigioni" に示されている。 ↩
- catastoとFerma generaleについては Lombardia Beni Culturali, "Stato di Milano, 1535–1749", https://www.lombardiabeniculturali.it/istituzioni/schede/8000356/。 ↩
- HLS, art. "Varèse"(Marino Viganò, フランス語訳 Denyse Wettstein), https://hls-dhs-dss.ch/fr/articles/007137/。レッタイオーラの高山牧草地については Marco Schnyder, "Territori, risorse e migrazioni. Il ceto dirigente svizzero in un contesto di frontiera e di mobilità (secoli XVII e XVIII)", working paper, Laboratorio di Storia delle Alpi, Università della Svizzera italiana (2011), https://labisalp.usi.ch/storage/app/media/Working%20Papers/wp-2011-3-schnyder.pdf。 ↩
- 1706年の協約の終了と1711年の更新の失敗については HLS, art. "Mailänder Kapitulate"(前掲)。第C.I章および第C.III章参照。 ↩
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。