1914年〜1989年の年表:第三の金融センターの興隆
金融センターとしてのルガーノおよびティチーノ州の年表のうち、本パートは94項目を収録する。各項目には、当該事象を論じる本書の章を示す。
| 年月日 | 事象 |
|---|---|
| 1914~1945年 | |
| 1914年1月10日 | クレディト・ティチネーゼが閉鎖される。同行は1月17日に破産を宣告され、バンカ・カントナーレ・ティチネーゼとバンカ・ポポラーレ・ティチネーゼも破綻し、預金者の損失は3,000万スイスフランを超える。(第C.IV章) |
| 1914年1月19~20日 | 大評議会が州立銀行の設立につながる決議を採択する。連邦およびスイス国立銀行(SNB)の代表がベルンで危機対策会議を開く。(第C.IV章) |
| 1914年8月 | スイスが動員を行い、中立を宣言する。ルガーノとロカルノの観光業は崩壊する。(第D.I章) |
| 1915年5月 | イタリアが第一次世界大戦に参戦し、ティチーノの南の国境は交戦国との境界となる。(第D.I章) |
| 1915年5月6日 | 州の全面的な保証を受ける公法上の機関、バンカ・デッロ・スタート・デル・カントーネ・ティチーノ(ティチーノ州立銀行)を設立する法律が制定される。(第C.IV章) |
| 1916年2月16日 | スイス連邦鉄道の理事会がゴットハルト線の電化を決定する。(第C.III章) |
| 1918年 | スイスの有権者が国民議会の比例代表選挙を承認する(66.8%)。最初の比例代表選挙は1919年10月に行われる。(第C.I章) |
| 1918年7月 | 1918年11月の全国ゼネストに先立ち、グリエルモ・カネヴァシーニの指導の下でルガーノでゼネストが行われる。(第D.I章) |
| 1919年 | クレディト・イタリアーノがルガーノにバンカ・ウニオーネ・ディ・クレディトを設立し、バンカ・ディ・ローマがルガーノ支店を開設して、イタリアの銀行グループが同市に足掛かりを得る。(第D.I章) |
| 1920年 | Union Bank of Switzerlandがバンカ・スヴィッツェラ・アメリカーナを吸収し、ロカルノとルガーノに進出する。ティチーノ銀行協会(Associazione Bancaria Ticinese)が設立される。ベリンツォーナのSNB代理店がバンカ・デッロ・スタートの下で再開される(4月15日)。(第C.IV章) |
| 1921年1月30日 | ゴットハルト条約への反発として、有権者が国際条約に関する任意的国民投票を導入する(71.4%)。(第C.III章) |
| 1921年5月 | スイスの地で最初のファシスト・グループがルガーノで結成される。6月、ムッソリーニはゴットハルトを「イタリアの自然で安全な国境」と呼ぶ。(第D.I章) |
| 1922年 | グリエルモ・カネヴァシーニが州政府初の社会主義者の閣僚となる(1959年まで)。(第D.I章) |
| 1923年11月25日 | ロカルノからドモドッソラに至るチェントヴァッリ鉄道が開業する。(第C.IV章) |
| 1925年 | キアッソに自由港(punto franco)が開設される。(第C.III章) |
| 1926年8月18日 | ムッソリーニがペーザロ演説でクオータ90を発表する。1927年6月までにポンドは88.09リラに下落し、国外に貯蓄を保有する誘因が一時的に低下する。(第D.I章) |
| 1927~1933年 | ランドルフォ・パッチャルディが、連邦当局により追放されるまでルガーノで反ファシズムの拠点を運営する。(第D.I章) |
| 1930年7月11日 | ジョヴァンニ・バッサネージがティチーノから反ファシズムのビラ散布飛行を行う。ルガーノの連邦刑事裁判所は彼一人のみを有罪とする(1930年11月22日)。(第D.I章) |
| 1931~1933年 | ジュネーブ銀行(Banque de Genève)の破綻と、1億スイスフランの連邦資金によるスイス国民銀行(Swiss Volksbank)の救済により、連邦の銀行立法が不可避となる。(第C.IV章) |
| 1931~1932年 | イタリア語によるスイスのラジオ放送が設立され、モンテ・チェネリから放送を行う。テレビ(TSI)は1961年に続く。(第J.I章) |
| 1932年10月27日 | フランス警察がパリでバーゼル商業銀行(Basler Handelsbank)の顧客記録を押収する。11月8日、フランスの脱税者の名前が下院で読み上げられる。(第D.I章) |
| 1934年1月25日 | ティチーノ・ファシスト連盟(Federazione fascista ticinese)の「ベリンツォーナ進軍」が失敗に終わる。(第D.I章) |
| 1934年11月8日 | 連邦銀行法:第47条が銀行秘密の侵害を犯罪とする。同法は1935年3月1日に施行され、連邦銀行委員会を設置する。(第C.IV章、第D.I章) |
| 1934年12月 | イタリアが外国為替の国家独占を確立し、国外の未申告資産に罰則を科す。(第D.I章) |
| 1935年 | 連邦参事会が、1912年7月4日から発行されていたL'Adulaを発禁とし、同誌の最終号は1935年8月3日に刊行される。捜査では訴追の根拠は見いだされなかったものの、この事件は1937年の刑法典にスイスの独立に対する攻撃を処罰する規定を設けるきっかけとなる。(第D.I章) |
| 1938年2月20日 | 国民と州が91.6%の賛成で言語条項の改正を承認し、ロマンシュ語を国語として認めるとともに、イタリア語を連邦の公用語と定める。(第J.I章) |
| 1938年10月 | スイスとの交渉を経て、ドイツがドイツ系ユダヤ人の旅券に「J」の印を押す。(第D.I章) |
| 1938年11月30日 | ムッソリーニがファシズム大評議会で「我々は国境をゴットハルトまで押し進める」と述べる。(第D.I章) |
| 1940年8月 | スイスがイタリアに武器供給のための7,500万スイスフランの信用を供与し(1941年に倍増)、ドイツに1億5,000万スイスフランの清算信用を供与する。(第D.I章) |
| 1942年 | ゴットハルトの月間通過貨物量が50万トンを超え、その4分の3超がドイツの石炭である。(第D.I章) |
| 1942年8月13日 | 連邦の通達が「人種的理由のみによる」難民を政治的庇護の対象から除外する。(第D.I章) |
| 1943年9月8日 | イタリアの休戦により、一夜(9月16~17日)にして約1万人の兵士がティチーノの国境に押し寄せる。同年秋には2万人を超えるイタリア兵が抑留される。(第D.I章) |
| 1944年7月12日 | 連邦当局がようやく、生命・身体の危険にさらされているすべての民間人を受け入れるよう国境に指示する。(第D.I章) |
| 1944年9月10日 | パルチザンがオッソラ共和国を宣言する。10月23日の同共和国の崩壊後、住民の多くがスイスに逃れる。(第D.I章) |
| 1945~1990年 | |
| 1945年 | 終戦時、ティチーノには11の銀行があり、従業員は約500人である。(第D.II章) |
| 1945年2月16日 | 連邦参事会がドイツ資産を凍結する。(第D.I章) |
| 1945年3月3~19日 | サンライズ作戦:ルガーノ、チューリッヒおよびアスコナでの秘密交渉が、イタリアにおけるドイツ軍の降伏を準備し、降伏は1945年5月2日に発効する。(第D.I章) |
| 1946年5月25日 | ワシントン協定:スイスが2億5,000万スイスフランを支払い、ドイツ資産の清算に同意する。(第D.I章) |
| 1947~1964年 | ルガーノではイタリア資本により設立された銀行が急増し、その中にはバンコ・ディ・ローマ・ペル・ラ・スヴィッツェラ(1947年)、Cornèr Banca(1952年)、Banca del Gottardo(1957年)、Banca del Ceresio(1958年)およびBanca del Sempione(1960年)がある。(第D.II章) |
| 1948年4月18日 | 共和国憲法の下でイタリア初の議会選挙が行われ、キリスト教民主党が共産党・社会党の人民戦線を破って勝利する。(第D.II章) |
| 1954年6月30日 | ティチーノへの通年の道路接続を実現するため、第二のゴットハルト委員会が設立される。(第C.III章) |
| 1956年 | 当時最大の鉱石・金属商社であったPhilipp Brothersがツークに移転する。スイスの仲介貿易国としての台頭がこれに続く。(第F.I章) |
| 1959年4月20日 | 刑事司法共助に関する欧州条約が締結され、スイスとイタリアについては1998年9月10日の二国間協定によって補完される。(第C.II章) |
| 1961年3月23日 | レックス・フォン・モース(Lex von Moos)が、外国人による土地購入に対する連邦の許可制を導入する。(第D.II章) |
| 1961年4月 | リヒテンシュタインにTexon Finanzanstaltが設立される。Schweizerische Kreditanstaltのキアッソ支店は、同社を通じてイタリアからの預金をイタリア企業に流す。(第D.III章) |
| 1961年5月 | バレルナにValori & Cambi(Valcambi)が設立される。1951年以降メンドリジオット地方に設立された3つの大規模金精錬所の一つである。(第F.I章) |
| 1962年12月29日 | イタリア初の中道左派政権が配当に対する源泉税を導入し、大規模な資本流出が続く(1963年には国内総生産の2.5%と推計される)。(第D.II章) |
| 1964年 | インフレ対策の連邦決議が外国預金への付利を禁止する(1965年2月28日の国民投票で承認)。イタリア資本によるバンカ・ヴァッルガーノが設立され、後に破綻する。(第D.II章) |
| 1965年 | 人口約2万5,000人の町ルガーノに358の金融会社が所在する。(第D.II章) |
| 1956~1966年 | イタリア資本に牽引され、ティチーノの銀行が集めた資金は242%増加し、スイスの全銀行の168%を上回る。(第D.II章) |
| 1969年 | スイスの銀行にあるイタリア人の資産は90億スイスフランを超えると推計される。12月12日のミラノのフォンターナ広場爆破事件が「鉛の時代」の幕を開ける。(第D.II章) |
| 1971年3月8日 | 教皇大勅書により、ルガーノが完全に独立した司教区となる。(第A.I章、第B.III章) |
| 1971年10月8日 | ブレトン・ウッズ体制の崩壊を受けて、通貨保護に関する連邦決議が出される。1972年7月から、外国人のフラン預金には四半期ごとに2%の手数料が課される。(第D.II章) |
| 1972年 | ルガーノがブレ=アルデサーゴおよびカスタニョーラと合併する。3度にわたる合併の波の最初である。レックス・チェリオ(Lex Celio、6月26日)がスイスの不動産に対する外国投資を制限する。(第D.II章) |
| 1973年1月 | イタリアが二重為替市場を導入する。1974年1月1日にはIRPEF(個人所得税)およびIRPEG(法人所得税)が続く。(第D.II章) |
| 1974年10月3日 | スイスとイタリアが越境通勤者(frontalieri)の課税について合意し、税収の一部がイタリアの国境地域の自治体に支払われる。(第D.II章) |
| 1975~1984年 | ピザ・コネクションのネットワークが約16億米ドル相当のヘロインを米国に送り込み、その収益はスイスの口座を経由し、運び屋によりポンテ・キアッソを通じて運ばれる。(第D.IV章) |
| 1975年 | Cornèr Bancaがスイスで初めてVisaカードを発行する銀行となる。(第E.I章) |
| 1976年3月4日 | イタリアの暫定措置令が資本の不法輸出を犯罪とする。居住者は1976年11月19日までに国外資産を申告しなければならない。(第D.II章) |
| 1976年3月9日 | イタリアが資本輸出を犯罪化した5日後、スイスとイタリアがローマで二重課税防止条約(租税条約)に署名する。同条約は1978年12月23日にイタリアにより批准され、1979年3月27日に発効する。(第D.II章、第H.III章) |
| 1976年4月14日 | スイスの命令が外国銀行券の輸入を1人当たり四半期2万スイスフランに制限する。(第D.II章) |
| 1976~1977年 | ゼニアのスイス法人Consitexがメンドリジオット地方で生産を開始する。これが「ファッション・ヴァレー」の始まりである。(第F.III章) |
| 1977年初頭 | ルガーノのWeisscreditが約1億2,000万スイスフランの損失を出した後、銀行免許を失う。(第D.II章) |
| 1977年4月14日 | Kreditanstaltがキアッソ支店における不正取引を公表する。これがキアッソ・スキャンダルの始まりである。支店長エルンスト・クールマイアーは前日に辞任していた。(第D.III章) |
| 1977年4月24日 | ティチーノ当局が、背任の容疑でクールマイアーと、その代理クラウディオ・ラッフランキを含む2人の副支店長を逮捕する。同行は約22億スイスフランの債務を引き受け、12億~14億スイスフランの純損失を計上する。(第D.III章) |
| 1977年6月2日 | 各銀行、スイス銀行協会およびSNBが、1977年7月1日に発効するデューデリジェンス協定(CDB 77)を締結し、顧客の本人確認を義務づけるとともに、資本逃避および脱税への積極的な助力を禁止する。(第D.III章) |
| 1977年6月 | ティチーノ州政府閣僚ファビオ・ヴァッサッリが、Texonとの関わりを理由に辞任する(英語文献によれば6月19日)。国民議会は1977年6月22日の会議をキアッソ事件に充てる。(第D.III章) |
| 1979年 | ブルーノ・ボルフォが鉄鋼商社Dufercoを設立し、同社は1980年代からルガーノ湖畔で事業を行う。(第F.I章) |
| 1979年7月3日 | ティチーノの重罪裁判所がクールマイアーとラッフランキに4年半の自由刑を言い渡す。(第D.III章) |
| 1979年10月8日 | 社会民主党が銀行秘密の濫用に反対する銀行国民発議を提出する。有権者は1984年5月20日、73%およびすべての州の反対でこれを否決する。(第D.III章) |
| 1980年9月5日 | ゴットハルト道路トンネル(約16.9キロメートル)が開通する。モンテ・チェネリを越える高速道路は1984年に続く。(第C.III章) |
| 1981~1994年 | カルラ・デル・ポンテがルガーノで予審判事および検察官を務め、スイスの銀行におけるマフィア資金についてジョヴァンニ・ファルコーネと協力する。(第D.IV章) |
| 1981年3月20日 | 刑事事件における国際司法共助に関する連邦法(IMAC)が制定され、政治犯罪および財政犯罪については例外が設けられる。(第C.II章) |
| 1982年 | ティチーノには44の銀行機関があり、従業員は7,000人を超える。(第D.II章) |
| 1982年6月18日 | アンブロシアーノ銀行(Banco Ambrosiano)のロベルト・カルヴィがロンドンで首を吊った状態で発見される。アンブロシアーノ銀行は1982年8月6日に清算手続に付され、そのルガーノの子会社Banca del Gottardoは住友銀行に移る。(第D.II章、第D.IV章) |
| 1982年9月13日 | イタリアのロニョーニ=ラ・トッレ法が、マフィア型結社罪(イタリア刑法典第416条の2)を創設する。(第D.IV章) |
| 1982年10月1日 | デューデリジェンス協定の第1次改訂版が、引き続き国立銀行と銀行協会を当事者として、さらに5年間の期間で発効する。(第D.III章) |
| 1983年12月16日 | 国外居住者による土地購入に関するレックス・フリードリヒ(Lex Friedrich)が制定される(1985年施行、1997年以降はレックス・コラー(Lex Koller)として知られる)。(第D.II章) |
| 1984年4月8日 | ガエターノ・バダラメンティがマドリードで逮捕される。ニューヨークでのピザ・コネクション裁判は1987年3月2日に18人の有罪判決をもって終結し、関連するスイスでの最初の裁判は1985年にルガーノで行われる。(第D.IV章) |
| 1984年6月18日 | ティチーノが受託者業務の遂行に関する法律(LFid)を採択する。同法は1985年1月1日に施行され、スイスで唯一の州による受託者の許可制度である。(第E.III章) |
| 1986年7月21日 | 連邦司法警察省が、ソットチェネリ地区の元検察官パオロ・ベルナスコーニに資金洗浄罪の起草を依頼する。ベルナスコーニは1986年9月15日に報告する。(第D.IV章) |
| 1987年2月 | ベリンツォーナの警察が約100キログラムのモルヒネ塩基とヘロインを押収し、レバノン・コネクションの捜査が始まる。(第D.IV章) |
| 1987年10月1日 | 国立銀行が従前の協定を終了させたため、CDB 87は銀行間の純然たる私的協定として発効する。(第D.III章) |
| 1988年 | アンジェロ・ダッレ・モッレがルガーノに人工知能研究所IDSIAを設立する。同研究所は2000年にUSIおよびSUPSIの附属機関となる。(第I.III章) |
| 1988年9月16日 | 欧州共同体(EC)および欧州自由貿易連合(EFTA)の加盟国が、裁判管轄および判決に関するルガーノ条約にルガーノで署名する。同条約は1992年12月1日からスイスとイタリアの間で適用される。(第B.I章、第H.IV章) |
| 1988年10月25日 | バンカ・デッロ・スタートに関する新たな州法が制定される。同法は2003年に改正され(2004年6月30日施行)、同行をより小規模な取締役会を有するユニバーサルバンクとする。(第C.IV章) |
| 1988年10月27日 | 連邦参事エリーザベト・コップが夫に電話をかけ、Shakarchi Tradingの取締役を辞任するよう求め、夫は同日辞任する。(第D.IV章) |
| 1988年11月 | ベリンツォーナの検察当局が、15億~20億スイスフランの麻薬収益がスイスの銀行口座を経由したと発表する。(第D.IV章) |
| 1988年12月12日 | 連邦参事エリーザベト・コップが、Shakarchi Tradingに対する捜査について夫に警告したことを受けて辞意を表明する。1989年1月12日に退任し、1990年2月に無罪判決を受ける。(第D.IV章) |
| 1989年1月31日 | 両院がモーリッツ・ロイエンベルガーを委員長とするコップ事件に関する議会調査委員会(PUK)を設置する。1989年11月24日のその報告書は連邦警察の身上調書の存在も明らかにし、これがFichenaffäre(身上調書事件)の引き金となる。(第D.IV章) |
| 1989~1990年 | ティチーノ銀行協会がヴェツィアのヴィッラ・ネグローニに銀行研究センター(Centro di Studi Bancari)を設立し(資料により1989年または1990年とされる)、同センターは2009年からCSVNの名称で財団となる。(第E.I章、第I.III章) |
| 1989年5月10日 | 連邦参事会が、ゴットハルトおよびレッチュベルクの両ベーストンネルによるネットワーク方式を選択する。(第C.III章) |
| 1989年6月12日 | 連邦参事会がピザ・コネクションおよびレバノン・コネクションを挙げて、資金洗浄罪に関する教書を提出する。(第D.IV章) |
| 1989年6月21日 | カルラ・デル・ポンテとクラウディオ・レーマンが滞在中のアッダウーラにあるファルコーネの別荘でダイナマイトが発見される。(第D.IV章) |
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。