公会議が残したもの
1448年に公会議がバーゼルを去ると、市は地方都市の規模に戻った。訪問者は去り、宿泊と消費からの収入は減少し、イタリアの銀行家たちは移っていった。それでも、公会議は永続的な遺産を残した。
第一の遺産は知的なものであった。公会議は、ヨーロッパ全域から学者、神学者及び人文主義者をバーゼルにもたらした。公会議はまた、バーゼルの市民が活用することのできる人脈を生み出した。バーゼルのドミニコ会修道院は公会議の蔵書の一部を収容し、写本を受け入れた。その中には、公会議のコンスタンティノープルへの使節であったラグーザのヨハネスがもたらしたギリシア語写本が含まれており、それらは後に大学図書館に移された。1 これらの写本は、エラスムスその他の人文主義者がギリシア語新約聖書及び教父著作の校訂版を作成する際に用いられることになる。
第二の遺産は経済的なものであった。公会議の期間中に確立された製紙業は存続し、成長した。バーゼルの商人は、イタリアの商会や、公会議に代表を送った地域の商人と関係を築いていた。市の財政は公会議期の収入から利益を得たが、同時に公会議受入れの費用によって負担も受けていた。
第三の遺産は制度的なものであった。公会議は、バーゼルが国際的な会議を受け入れ、参加者の安全を保障し、その需要に応じて市場を規制し、当事者間で中立を保つことができることを示した。これらの能力は再び用いられることになり、その最も顕著な例は、市が1930年に国際決済銀行(BIS)の所在地となったことである。
第四の遺産は大学であった。ピウス2世という人物を介した公会議と大学創設との結びつきは、公会議の影響の最も具体的な表れである。次章では、大学の創設、帝国の市(いち)開催特権及びバーゼルの盟約者団への加盟を考察する。
注
- ラグーザのヨハネス・ストイコヴィッチがバーゼルにもたらしたギリシア語写本及びその後のバーゼル大学図書館への移管については、スイス歴史事典(HLS)の項目「Johannes von Ragusa」、Universitätsbibliothek Baselの刊行物を参照。要確認。 ↩
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。