三十年戦争とバーゼルの中立
17世紀初めの亡命者たちは、近世史上最も破壊的な戦争へと滑り落ちつつあるヨーロッパに到着した。1618年にボヘミア諸身分の反乱で始まり1648年に終わった三十年戦争は、バーゼル周辺の領域を含む帝国の広大な部分を荒廃させた。スウェーデン、皇帝、フランス及びスペインの軍隊が上部ライン地方を越え、ブライザッハとラインフェルデンを包囲し、アルザスとブライスガウを略奪し、この地域に飢饉と疫病をもたらした。1
スイス盟約者団は戦争の外にとどまった。宗教によって分断された諸州は、いずれも介入が盟約者団を分裂させることを恐れたため、どちらの側に付くかについて合意することができなかった。諸州は中立政策を維持し、それは国境防衛のための共同防衛協定である1647年のヴィール防衛協定(Defensionale)によって強化された。2 国境に位置し軍隊の移動にさらされたバーゼルは、領域の侵犯と交戦国の圧力に苦しんだが、戦争への直接の関与は避けた。
中立は経済的な利益をもたらした。周辺の領域が荒廃する中で、バーゼルは交易を続けた。その商人たちは、さまざまな陣営の軍隊に穀物、布地、武器その他の物資を供給し、戦時の高値から利益を得た。アルザスやプファルツの富裕な家族をはじめとする戦場からの避難民は、その資本を市に持ち込んだ。バーゼルは、戦火の地域における金銭と貴重品の安全な避難先となり、その後の数世紀の戦争、とりわけ第二次世界大戦において再びこの役割を果たすことになる。
この役割には曖昧さが伴っていた。交戦国との交易は、交戦国自身が提起した中立の問題を生じさせた。一方の側に供給する中立国はその側を利していると非難され得、避難民の資金を受け入れる中立国は他人の不幸から利益を得ていると非難され得た。独立専門家委員会「スイス-第二次世界大戦」、通称ベルジエ委員会が1996年から2002年にかけて検討した、第二次世界大戦におけるスイスの行動をめぐる議論は、現代の文脈においてこれらの問題を扱った。第D部で再びこれを取り上げる。3 三十年戦争の経験は、中立による利益の曖昧さがスイスの中立そのものと同じくらい古いことを示している。
注
- 上部ライン地方における三十年戦争(1638年のブライザッハ及び1634/1638年のラインフェルデンの包囲)とバーゼルへのその影響については、HLS, article "Dreissigjähriger Krieg"を参照。要確認。 ↩
- 三十年戦争中のスイスの中立とヴィール防衛協定(Defensionale von Wil、1647年)については、HLS, articles "Neutralität" and "Defensionale"を参照。要確認。 ↩
- 独立専門家委員会「スイス-第二次世界大戦」(ベルジエ委員会、1996–2002年)と2002年のその最終報告書については、www.uek.chを参照。要確認。 ↩
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