教会財産の世俗化
宗教改革の最も重要な経済的帰結は、教会財産の市への移転であった。1529年以前、教会は市とその領域における土地、家屋、定期金及び十分の一税の大部分を所有していた。大聖堂参事会、修道院、参事会教会、教区及び礼拝堂付司祭職は、聖職者のため及び宗教目的のための収入を生む広範な資産を保有していた。宗教改革は修道院と礼拝堂付司祭職を解散し、ミサと死者のためのミサの寄進財団を終わらせ、教会の資産を市の管理下に置いた。1
市はこの財産を一般歳入から分離して保持し、旧来の各機関の資産を、参事会が任命する管理人、すなわちSchaffnerの管理下に置いた。管理人は収入を徴収し、それを参事会が定める目的のために用いた。主な目的は、改革派の牧師の俸給、大学と学校の支援、そして救貧であった。修道院を去った修道士と修道女は年金又は持参金を受け取った。建物の一部は新たな用途に転用された。ドミニコ会修道院は病院となり、他の修道院は学校、穀物倉又は行政庁舎となった。
世俗化された財産の管理は、大規模な財政上の事業であった。それには、何百もの不動産と何千もの定期金の管理、農村部における十分の一税の徴収、建物の維持、そして俸給と年金の支払が必要であった。この目的のために、市は財務行政を発展させた。旧来の諸機関の個別の基金は、後に教会・学校基金に統合され、その収入は教会、教育及び救貧の目的に充てられた。これらの基金を市の一般財政から分離したことは、教会の財産が世俗化の後もなお、市が尊重しなければならない目的を保持しているという考え方を反映していた。2
バーゼルにおける世俗化は、他のプロテスタント領域におけるそれと比較することができる。イングランドでは、ヘンリー8世が1536年から1540年にかけて修道院を解散し、その土地の大部分を貴族とジェントリに売却した。これにより、宗教改革の維持に利害を有する地主階級が生まれた。ドイツのルター派領域では、諸侯が教会財産の多くを自らの目的のために収用した。ジュネーブでは、姉妹編で述べるとおり、教会の財産は新しい病院であるHôpital généralと、1559年に設立されたアカデミーの財源に充てられた。教会財産の目的を市の管理の下で維持したバーゼルの方式は、イングランドやドイツのモデルよりも、チューリッヒやジュネーブの方式に近かった。
金融の歴史にとって、1529年の世俗化はいくつかの点で重要である。それは市の歴史における最大の富の移転であった。それは、専門的に管理されなければならない不動産と定期金の大規模なポートフォリオを市当局の手に委ねた。それは資産の所有をその資産が奉仕する目的から分離し、そのために会計と統制の仕組みを必要とした。そしてそれは、寄附基金の収入によって賄われる公教育と救貧の制度的基盤を創出し、それは近代福祉国家に至るまでバーゼルを特徴付けることになった。
注
- 1529年以降のバーゼルにおける教会財産の世俗化と、市の役人(Schaffner)によるその管理については、HLS, article "Säkularisation"、Burckhardt, 1942を参照。要確認。 ↩
- 世俗化された教会財産の教会・学校基金(Kirchen- und Schulgut)への統合と、19世紀に至るまでのその管理については、HLS, article "Kirchengut"及びバーゼル教会の財政に関する文献を参照。要確認。 ↩
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