生糸取引とそのリスク
生糸の供給は、リボン産業の連鎖の最初の環であり、その主要なリスク源の一つであった。生糸の価格は繭の収穫とともに変動し、繭の収穫は天候、蚕の健康状態、そして生産地域の政治状況に左右された。イタリアでの凶作は生糸の価格を倍増させ得たため、固定価格でのリボン引渡しを約束していたリボン商人は大きな損失を被る可能性があった。
バーゼルの商人は、このリスクをいくつかの方法で管理した。価格が有利なときに生糸を前もって購入し、高値の時期を乗り切ることのできる在庫を保有した。イタリアの複数の地域、フランス、スペインおよびレバントで購入することにより、調達先を多様化した。イタリアの生糸商や撚糸業者と緊密な関係を維持し、彼らから収穫と市場の状況について情報を得た。そして販売価格と生産を原材料のコストに合わせて調整した。
1850年代、蚕の病気である微粒子病(ペブリン)の流行が、フランスとイタリアの絹生産に壊滅的な打撃を与えた。収穫が激減し価格が高騰すると、ヨーロッパの絹産業は他の供給源に生糸を求めざるを得なくなった。1850年代後半の日本の開国と1869年のスエズ運河の開通により、中国と日本のアジア産の絹が大量に入手可能となり、生糸取引の重心はアジアへと移った。1 チューリッヒやバーゼルの商人を含むスイスの絹商人は、アジアの供給者や商社と関係を築き、一部のスイス企業は横浜と上海に支店を開設した。
このように生糸取引は、そのリボン産業の需要を通じて、本書の筆者が香港とシンガポールにおける実務で経験してきたスイスと中国との現代的な関係よりもはるか以前に、バーゼルをアジアと結びつけていた。19世紀後半の横浜と上海におけるスイスの絹商人は、東アジアにおける最初のスイス人実業家の一部であり、その活動は、スイスの時計産業、スイスの商社、そしてのちにはスイスの銀行や製薬企業が発展させることになる商業関係を準備したのである。
リボン商人が経験的に実践していた原材料リスクの管理は、今日では高度な金融商品の対象となっている。すなわち、コモディティの先物、オプションおよびスワップであり、これらにより生産者と消費者は価格変動に対するエクスポージャーをヘッジすることができる。ジュネーブに関する姉妹巻は、これらの商品を大規模に利用するコモディティ取引産業を検討している。生糸を前もって購入し在庫を保有していたバーゼルのリボン商人は、こうした商品なしに、今日ジュネーブのコモディティ取引業者が実践しているリスク管理を行っていたのである。
注
- 1850年代および1860年代の微粒子病(ペブリン)の流行、そのヨーロッパの養蚕への影響、Louis Pasteurによるこの病気の研究、および日本の開国とスエズ運河の開通(1869年)後のアジア産生糸(中国、日本)への移行については、絹産業の歴史に関する文献を参照。要確認。 ↩
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