改革への道
宗教改革の思想は早くからバーゼルに届いた。第I章で示したとおり、市の印刷所は1519年以降ルターの著作を再版し、それを上部ドイツ及びスイス地域の全域に広めた。いくつかの教区の説教者は1520年代初頭に新しい教説を説き始め、聖人崇敬、犠牲としてのミサ、断食の規則、独身制及び教皇の権威を攻撃した。旧信仰の支持者と新信仰の共鳴者とに分かれていた参事会は、聖書に従った説教を許す一方で侮辱と騒擾を禁じる命令を発することにより、何年にもわたって平和を保とうとした。1
1520年代のバーゼルの状況は微妙なものであった。市はカトリックの領域に囲まれていた。すなわち、ズントガウとブライスガウのハプスブルク領、ジュラの司教領、カトリックのゾロトゥルン州(カントン)、そしてさらに遠くには中央スイスの諸州である。司教はなお市内に大聖堂を有しており、大聖堂参事会、大学及び修道院は旧信仰の砦であった。エラスムスは市内に住み、宗教改革に敵対的であった。他方、チューリッヒはウルリッヒ・ツヴィングリの指導の下で1523年から1525年にかけて宗教改革を採用し、ベルンも1528年にこれに続いた。双方からの強い圧力の下で、参事会はためらった。
社会的緊張が宗教的対立に加わった。市民の多数を占めるツンフトは、聖職者の特権を終わらせ、ローマへの支払を廃止し、教会を共同体の管理下に置くことを約束する宗教改革に、次第に共感を示すようになった。小参事会を支配していた門閥家系とHerrenzünfte(上層ツンフト)の富裕な商人たちは、旧教会との個人的なつながりと、カトリック領域における商業上の利益の双方のために、より慎重であった。1525年には、ドイツ農民戦争に触発された市の農村部の臣民が市の権威に対して蜂起し、十分の一税と諸負担について譲歩を勝ち取った。2
こうして宗教改革は、宗教、政治及び経済が結び付いた対立の焦点となった。争われていたのは、真の教義、市の統治、教会財産の管理、そして共同体の負担の分配であった。
注
- 1520年代初頭のバーゼルにおける宗教改革思想の普及と、説教に関する参事会の命令(例えば1523年)については、HLS, article "Reformation"、Wackernagel, vol. 3, 1924を参照。要確認。 ↩
- ドイツ農民戦争の文脈における1525年のバーゼル農村部の騒擾と市が行った譲歩については、HLS, article "Bauernkrieg (1525)"及びバーゼル農村部に関する文献を参照。要確認。 ↩
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