バーゼルの人文主義者サークル
エラスムスは、バーゼルに住み、あるいはこの町を通過した学者たちの集まりの中心にいた。アルザスのセレスタに生まれたベアトゥス・レナヌスは、フローベンのもとで編集者兼校正者として働き、タキトゥスやウェッレイウス・パテルクルスをはじめとする古典作家の校訂版と、ドイツの歴史書を刊行した。グラールス出身のスイス人で、グラレアヌスとして知られるハインリヒ・ロリティは、バーゼルで教え、地理学、音楽理論及び年代学について著述した。後にバーゼルの宗教改革者となるヨハネス・エコランパディウスは、フローベンの校正者兼編集者として働き、新約聖書のヘブライ語とギリシア語についてエラスムスを助けた。後にストラスブールの宗教改革者となるヴォルフガング・カピトも、この時期バーゼルで働いていた。1
この集まりには、後のバーゼルの歴史を形作ることになる若い人々も加わっていた。法学者ボニファキウス・アメルバッハは、晩年のエラスムスの最も親しい友人となった。地理学者でありヘブライ学者でもあるセバスティアン・ミュンスターは、1529年にバーゼルに来て、1552年に没するまで大学で教えた。1499年にヴァレー地方の貧しい家に生まれたトーマス・プラッターは、山羊飼いとして働き、遍歴学生としてドイツを放浪し、ラテン語、ギリシア語及びヘブライ語を学び、綱職人、校正者、印刷業者となり、最後にはバーゼルのラテン語学校の校長となった。晩年に書かれた彼の自伝は、16世紀における社会的上昇を最も生き生きと伝える記録の一つである。2 第IV章で示すとおり、1536年にバルタザール・ラシウスとともにカルヴァンのInstitutioを印刷したのは、このトーマス・プラッターであった。その息子フェリックス・プラッターは当代屈指の医師の一人となり、バーゼルの医学教授となった。
この集まりは、人文主義の世界が異なる社会的出自や異なる国の才能に開かれていたことを示している。レナヌスはアルザス、グラレアヌスはグラールス、エコランパディウスはフランケン、カピトはアルザス、ミュンスターはプファルツ、プラッターはヴァレーの出身であった。彼らは、少なくとも一定の限度内では家柄よりも能力が重んじられる国際的な共同体を形成し、バーゼルはその出会いの場となった。バーゼルが16世紀に実践していたこの外国の才能への開放性は、あらゆる金融センターの条件である。今日のスイスの金融センターは、外国からの有資格の専門人材の採用に依存しており、それは2002年以降、欧州連合(EU)との人の自由移動によって容易になっている。
注
- バーゼルにおけるエラスムスとフローベンを中心とする人文主義者の集まり(ベアトゥス・レナヌス、グラレアヌス、エコランパディウス、カピトほか)については、HLSの各人物に関する項目を参照。要確認。 ↩
- トーマス・プラッター(1499–1582年)の自伝。HLS, article "Platter, Thomas"を参照。要確認。1536年のプラッターによるカルヴァンのInstitutioの印刷については、第IV章を参照。 ↩
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