黄金海岸の伝道
1828年、バーゼル伝道会は最初の宣教師をゴールドコーストに派遣した。ゴールドコーストとは、アイボリーコーストと奴隷海岸の間に位置する西アフリカ沿岸の一帯であり、ヨーロッパ列強は15世紀以来、金と奴隷とされた人々の取引のためにそこに城塞を維持していた。最初の宣教師たちは、デンマーク当局の招請により、アクラ近郊のオスにあるデンマークの城塞クリスチャンスボーに派遣された。その大半は到着から数か月のうちに熱病その他の疾病で死亡したが、それは「白人の墓場」というこの地域の評判が予見していた運命であった。1
伝道会は、少数の宣教師の粘り強さによって存続した。その中には、1832年に到着し、1835年に伝道拠点を内陸の、気候がより健康的なアクアペム丘陵のアクロポンに移したアンドレアス・リースがいた。1843年、伝道を強化するため、バーゼル伝道会はジャマイカから一群のキリスト教徒入植者を募集した。彼らは英国の奴隷制廃止によって解放された、奴隷とされたアフリカ人の子孫であり、伝道会は彼らをアクロポンに連れてきた。彼らはそこで伝道集落の建設を助け、新たな作物と技能を導入した。2 奴隷制の廃止後に祖先の大陸に戻った西インド諸島のキリスト教徒の到来は、アフリカン・ディアスポラの歴史における注目すべき出来事の一つである。
ゴールドコーストのバーゼル伝道会は、独自の手法を発展させた。伝道会は学校を設立し、英語とドイツ語に加えて現地語でも教育を行った。その宣教師たちは地域の言語、とりわけトウィ語とガ語を研究し、文法書と辞書を著し、聖書を翻訳した。ヴュルテンベルク出身の宣教師ヨハン・ゴットリープ・クリスタラーは、トウィ語の辞書とトウィ語のことわざ集を著し、これらは今日なお標準的な著作となっている。3 伝道会はまた、改宗者に生計を立てるための技能を習得させるため、大工、石工、鍛冶その他の手工業の作業場を設立した。
バーゼル伝道会が設立した教会はガーナ長老教会となり、同国最大級の教会の一つとなった。また、アクロポンの教員養成学校をはじめとするその学校は、何世代にもわたるガーナの教員、聖職者、指導者を養成した。したがって、ガーナにおけるバーゼル伝道会の遺産は大きい。ガーナでは、それは感謝と、植民地時代におけるその役割に対する批判的省察とが入り混じった形で受け止められている。
注
- ゴールドコーストにおけるバーゼル伝道会の始まり(1828年12月の最初の宣教師のクリスチャンスボー/オスへの到着)と初期の宣教師の高い死亡率については、ガーナにおけるバーゼル伝道会の歴史に関する文献を参照。要確認。 ↩
- アンドレアス・リース(1804–1854年)、1835年のアクロポンへの移転、および1843年にアクロポンに到着した西インド諸島(ジャマイカ)のキリスト教徒入植者の募集については、ガーナにおけるバーゼル伝道会に関する文献を参照。要確認。 ↩
- Johann Gottlieb Christaller, A Dictionary of the Asante and Fante Language called Tshi (Twi), Basel 1881; A Collection of Three Thousand and Six Hundred Tshi Proverbs, Basel 1879. 要確認。 ↩
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