公会議自体の財政
公会議は費用のかかる機関であった。公会議は、その尚書院、法廷、使節及び行政の費用を賄わなければならなかった。その構成員は自らの滞在費を負担しなければならず、それは遠隔地から来た司教や修道院長にとって重い負担であった。そして公会議の改革、とりわけ初年度収入税(アンナーテ)の廃止は、その活動を賄い得たはずの収入を公会議自身から奪うものであった。
公会議は、教皇庁を範とする完全な行政機構を整備した。すなわち、公会議の印璽の下で文書を発給する尚書院、教会上の紛争を裁く法廷であるロタ、赦免と特免を与える内赦院、そして収入を徴収する財務部局であるカメラである。これらの機関は、教皇庁と同様に、その役務に対して手数料を徴収した。公会議が事実上、対抗する教皇庁となると、それが徴収する手数料は、一部は公会議自身の金庫に、一部はその役人の懐に流れ込んだ。1
公会議の最も重要な財務上の事業は、ギリシア教会との合同のための贖宥であった。1436年、公会議は贖宥を布告し、その収益をギリシア代表団の西方への移送と合同公会議の費用に充てることとした。贖宥はヨーロッパ全域で説かれたため、その徴収には、収益を公会議に送金することのできる徴収人、保管人及び銀行家のネットワークが必要であった。2 合同交渉の開催地をめぐる公会議と教皇の競争は、資金をめぐる競争でもあった。交渉の開催を申し出た諸都市は、その中にはアヴィニョンも含まれていたが、ギリシア人の移送費用を賄うために公会議に貸付を申し出た。これに対し、教皇はイタリア諸都市の資金力で対抗した。
公会議の失敗の財務的側面は強調に値する。公会議は、教皇庁が依存していた手数料を廃止することによって教皇財政を改革しようとしたが、それに代わる収入源を用意することはできなかった。エウゲニウス4世を廃位してフェリクス5世を選出したとき、公会議はその活動資金をサヴォイア家の富に頼った。対立教皇制の負担はサヴォイアの財政に重くのしかかった。これに対し、教皇はイタリアの銀行家、とりわけメディチ家の支援を受けていた。メディチ家は教皇財政を管理し、必要なときには資金を前貸しすることができた。結局、信用へのより良いアクセスを有する側が勝利したのである。
注
- 教皇庁を範としたバーゼル公会議の諸機関(尚書院、ロタ、内赦院、カメラ)については、Helmrath, 1987を参照。要確認。 ↩
- ギリシア教会との合同の資金を賄うためにバーゼル公会議が1436年に布告した贖宥及びその徴収については、Helmrath, 1987、並びに公会議とギリシア人との関係に関する文献を参照。要確認。 ↩
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。