公会議の経済
総会議の到来は、バーゼルの経済を一変させた。1430年代半ばの最盛期には、公会議は数千人を市にもたらした。家中を伴う高位聖職者、随員を伴う使節、神学者、法律家、写字生、召使い、そして彼らに物資を供給する商人や職人である。正確な数は定かでない。最盛期に公会議と関わりのあった者の総数の推計は数千人から1万人超まで幅があり、後者であれば市の人口は倍増したことになる。1
これほど多くの訪問者の存在は、住居、食料、ワイン、馬、衣類、紙、ろうそく、そしてあらゆる種類のサービスへの需要を生み出した。宿屋の主人、家主、パン屋、肉屋、ワイン商、職人が利益を得た。ワインと穀物に対するウンゲルトからの市の収入は増加した。市民が部屋や家に対して請求できる賃料は上昇し、そのため市は、その評判を損ない公会議を遠ざけかねない濫用を防ぐために価格を規制しなければならなかった。市参事会は、宿舎を割り当て、賃料を定め、食料と飼料の価格を統制するための委員会を設置した。2
この経験は示唆に富む。受入れ都市は二つの利益の均衡をとらなければならない。一方において、都市は客人の支出から利益を得たいと望む。他方において、都市は滞在を魅力のないものにし、その評判を損なうような過度の価格を避けなければならない。公会議の期間中にバーゼルが行った賃料と価格の規制は、現代の受入れ都市が国際機関、国際会議および大規模な催しのために採用する政策、すなわち補助を受けた施設の提供、特別な住宅措置、職員に対する税制上の特権、そして催しの期間中の価格統制を先取りしている。姉妹編で検討するジュネーブの国際機関に対する政策、そして第F部で検討するバーゼルの国際決済銀行(BIS)に対する政策は、同じ均衡の現代的な形態である。
公会議はまた、市に費用を課した。訪問者には保護が必要であり、そのためには衛兵と巡回が必要であった。訪問者と市民との紛争には裁判と仲裁が必要であった。人々の流入は疫病と火災のリスクを高めた。そして、教皇と教父たちとの間、対立する国民団の間、諸侯の間における公会議の政治的対立は、市を外交的圧力と、自らの制御を超えた紛争に巻き込まれるリスクにさらした。1438年以降に公会議が衰退すると市は収入を失い、1448年にフリードリヒ3世が保護を撤回すると、市は公会議に退去を求めなければならなかった。
注
- 公会議の最盛期(1430年代半ば)にバーゼルに滞在した者の数の推計は、文献によって大きく異なる。Helmrath, 1987、Wackernagel, vol. 1, 1907 を参照。数値は要確認。 ↩
- 公会議の期間中のバーゼル市による宿舎、賃料および食料価格の規制については、Wackernagel, vol. 1, 1907、Helmrath, 1987 を参照。要確認。 ↩
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。