公会議の経過
公会議は三つの主要な目的を追求した。フス派との和解、教会の改革、そしてギリシア教会との合同である。
フス派の問題が最も緊急であった。1415年にコンスタンツ公会議でヤン・フスが処刑されて以来、ボヘミアは教会と帝国に対して反乱を続けており、フス派の軍勢は彼らに対して送られたいくつもの十字軍を打ち破っていた。公会議はフス派をバーゼルに招き、1433年1月にボヘミアの代表団が到着して、数か月にわたり公会議の神学者たちと討論した。交渉は1436年にプラハ協約、すなわちコンパクタータ(Compactata)に結実し、これによりフス派には両形態による聖体拝領が認められ、穏健派のフス派は教会に再統合された。1 これは公会議の成功の一つであり、軍事力が失敗したところで、代表制の会議が解決を交渉によって導く能力を有することを示した。
教会の改革は、何よりも教皇庁とその財政に関わるものであった。公会議は、教会会議の定期的開催、司教の選出、聖職者の行状、そして本書の主題にとって最も重要な、教皇権の財政上の権利に関する教令を採択した。これらの教令のうち最も急進的なものは1435年に採択され、新たに任命された司教や修道院長が教皇庁の財務に支払わなければならなかった初年度収入納付金(アンナーテン)、および任命や特免について教皇庁が課していたその他の手数料を廃止した。2 この教令は教皇庁の財政の核心を突くものであったため、公会議とエウゲニウス4世との最終的な決裂の主たる原因の一つとなった。
ギリシア教会との合同は、公会議の運命を決した問題であった。オスマン・トルコに脅かされていたビザンツ帝国は西方に援助を求め、その援助の代償として教会合同を交渉する用意があった。合同はそれを実現した者に計り知れない威信をもたらすため、公会議と教皇はいずれも交渉を自らの下で行うことを望んだ。公会議はバーゼル、アヴィニョン、またはサヴォイアの都市を提案し、教皇はイタリアの都市を提案した。アルプス以北の都市に赴くことができず、教皇と交渉することを好んだギリシア側は、教皇の申出を受け入れた。1437年、エウゲニウス4世は公会議をフェラーラに、後にはフィレンツェに移し、1439年にそこでギリシア側との合同が宣言された。3 枢機卿チェザリーニを含むバーゼルの教父たちの少数派は、教皇に従ってイタリアに向かった。多数派はバーゼルにとどまり、教皇に対抗する公会議として活動を続けた。
1439年、公会議はエウゲニウス4世を廃位し、サヴォイア公アメデーオ8世を教皇に選出した。アメデーオはフェリクス5世を名乗った。レマン湖畔のリパイユの隠棲所に退いていた俗人であり君主である人物を選出したことは、政治的・財政的資源を有する保護者を必要とする公会議の事情を反映していた。しかしフェリクス5世を承認した諸侯はわずかであり、そのため公会議は次第に支持を失った。1448年、ローマ王フリードリヒ3世がその保護を撤回し、公会議はローザンヌに移った。1449年、フェリクス5世は退位し、公会議はエウゲニウスの後継者ニコラウス5世を自らの教皇として選出した後に解散し、分裂は終結した。4 教皇権の勝利により、公会議運動はその力を失った。
注
- バーゼルにおけるフス派との交渉(1433年1月以降)とプラハ/イフラヴァ協約(Compactata、1436年)については、Helmrath, 1987、およびフス派運動に関する文献を参照。年代は要確認。 ↩
- 初年度収入納付金および類似の支払いを廃止したバーゼル公会議の教令(第21会期、1435年6月9日)については、Helmrath, 1987、および15世紀の教皇庁財政に関する文献を参照。日付は要確認。 ↩
- ギリシア側との交渉の開催地をめぐるバーゼル公会議とエウゲニウス4世との対立、公会議のフェラーラ(1437年/38年)およびフィレンツェへの移転、ならびに合同教令 Laetentur caeli(1439年7月6日)については、Helmrath, 1987、およびフェラーラ=フィレンツェ公会議に関する文献を参照。 ↩
- エウゲニウス4世の廃位(1439年6月25日)、フェリクス5世の選出(1439年11月5日)、公会議のローザンヌへの移転(1448年)、ならびに公会議の終結とフェリクス5世の退位(1449年4月)については、Helmrath, 1987、スイス歴史事典(HLS)の項目「Basler Konzil」および「Felix V.」を参照。年代は要確認。 ↩
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