カカオ革命
バーゼル伝道会とその商事会社が関与した最も重要な経済的変容は、ゴールドコーストにおけるカカオ経済の勃興であった。カカオは19世紀後半にゴールドコーストに導入された。バーゼル伝道会は早くから栽培を試みていた。ガーナの伝承によれば、伝道会の作業場で訓練を受けた農民であり鍛冶職人であったテッテ・クワシーが、1879年に自らが働いていたフェルナンド・ポー島からカカオ豆をゴールドコーストに持ち込み、伝道拠点アクロポンに近いアクアペムのマンポンに植えたという。1
カカオ経済はアフリカの農民の間に急速に広がった。彼らは森林を開墾し、カカオの木を植え、豆を商人に販売した。30年のうちに、ゴールドコーストは世界最大のカカオ生産地となった。この拡大を推進したのはアフリカの農民と企業家であり、彼らは独自のネットワークを通じて労働力の移動、土地の取得、農園の資金調達を組織した。バーゼル伝道商会はカカオの主要な買付・輸出業者の一つであり、買付所を設け、農民に信用を供与し、カカオのヨーロッパへの船積みを手配することによって、取引の組織化に寄与した。2
ゴールドコーストのカカオはヨーロッパに船積みされ、成長しつつあったチョコレート産業に供給された。ミルクチョコレートとコンチング製法の発明によって19世紀に世界をリードする存在となったチョコレート製造業者を擁するスイスは、西アフリカ産カカオの最大の消費国の一つであった。こうしてバーゼル伝道商会は、アクアペムの農民とスイスのチョコレート工場を結びつけたのである。
カカオ経済は多くの農民に繁栄をもたらし、ゴールドコーストをアフリカで最も豊かな植民地の一つとした。他方でそれは、単一の輸出商品への依存を生み出し、農民を国際価格の変動にさらし、価格を支配しようとするヨーロッパの商社と農民との間の対立をもたらした。1937年から1938年にかけて、ゴールドコーストのカカオ農民は、価格を引き下げるための買付協定を結んでいたヨーロッパの商社に対してボイコットを組織した。この対立は、英国政府による調査につながった。3
注
- ゴールドコーストへのカカオの導入、バーゼル伝道会による初期の試み、および1879年にフェルナンド・ポーからカカオ豆を持ち込みマンポン・アクアペムに植えたとされるテッテ・クワシー(1842年頃–1892年)の伝承については、ガーナにおけるカカオの歴史に関する文献を参照。要確認。 ↩
- 1911年頃までにゴールドコーストが世界最大のカカオ生産地となったこと、ならびにアフリカの農民およびバーゼル伝道商会を含むヨーロッパの商社の役割については、ガーナのカカオ経済に関する文献(例えばPolly Hill, The Migrant Cocoa-Farmers of Southern Ghana, 1963)を参照。要確認。 ↩
- ヨーロッパの商社の買付協定に対するゴールドコーストにおける1937/38年のカカオ出荷停止とその後のノーウェル委員会については、ガーナ経済史に関する文献を参照。要確認。 ↩
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