カルヴァンが知ったバーゼル
1535年1月にカルヴァンがバーゼルに到着したとき、同市が改革派となってから6年が経っていた。教会からは聖像が取り除かれ、ミサは廃止され、修道院は解散されていた。1531年にエコランパディウスが没した後は、その後継者オスヴァルト・ミコニウスが教会を率いていた。大学は1532年にプロテスタントの機関として再開されていた。エラスムスはフライブルクにおり、カルヴァンの到着から数か月後の1535年夏に戻ることになる。印刷所は、学者、亡命者及び学生にあふれた市で活発に活動していた。1
カルヴァンはバーゼルで偽名を用いて静かに暮らし、研究と執筆に専念した。彼は、ミコニウス、ギリシア語教授シモン・グリュナエウス、そしてストラスブールから訪れたヴォルフガング・カピトをはじめとするバーゼルの学者や改革者の何人かと会った。彼はセバスティアン・ミュンスターの下でヘブライ語を学んだ可能性がある。知られている限り、両者が数か月間同時に市内に住んでいたにもかかわらず、彼はエラスムスと会うことはなかった。若い改革者と、その学問の方法が彼自身の方法を形作った老人文主義者とは、宗教改革に対する態度の違いによって隔てられ、離れたままであった。
1535年のバーゼルは、カルヴァンが必要とするもの、すなわち安全、書物、学者、印刷業者、そしてヨーロッパの思想市場への接近を提供した。それは若い亡命知識人にとって、執筆に理想的な場所であった。Institutioの初版はこの環境を反映している。それは、バーゼルの印刷所と人文主義者サークルの方法で訓練を受けた人文主義学者が、それを神学に適用した著作である。カルヴァンは後に、まったく異なる環境の下、教会の指導者であり政治的人物としてジュネーブで決定版を書くことになる。バーゼルのInstitutioが学者の書物であるのに対し、ジュネーブのInstitutioは改革者の書物である。
注
- 1535年のバーゼルの状況(アンティステスとしてのミコニウス、再開された大学、1535年のエラスムスの帰還)については、HLS, articles "Myconius, Oswald" and "Erasmus von Rotterdam"を参照。要確認。 ↩
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