サン=ドマングと自由の代価
イスパニョーラ島の西部にあたるフランス植民地サン=ドマングは、18世紀後半には世界で最も豊かな植民地であり、約50万人の奴隷とされたアフリカ人の労働によって、ヨーロッパで消費される砂糖とコーヒーの大きな部分を生産していた。サン=ドマングは、クリストフ・ブルクハルト商会が持分を保有していた船舶を含め、ナントの奴隷船の主要な目的地であった。1791年、サン=ドマングの奴隷とされた人々は反乱を起こした。プランター、フランス、英国、スペインを相手とする10年以上の戦争の後、彼らは1804年にハイチの独立を宣言した。ハイチは、かつて奴隷とされた人々によって建国された南北アメリカで最初の独立国家である。1
この革命は、サン=ドマングに利害を有していた商人と投資家に多大な損失をもたらした。その中にはバーゼルの同社も含まれており、同社の植民地との事業は崩壊した。シュテットラー、ヘンガー、ラプハルトの研究は、この革命が同社にどのような影響を与え、その経営難にどのように寄与したかを示している。
独立後のハイチの財政史は、債務と主権の関係についての教訓である。1825年、フランスは、ハイチが旧植民者に対し、自らを解放した奴隷とされた人々を含む失われた財産の補償として1億5,000万フランの賠償金を支払うことを条件に、ハイチの独立を承認した。この金額は後に9,000万フランに減額されたが、ハイチの支払能力をはるかに超えていた。そのためハイチはその支払いのためにフランスの銀行から借入れを余儀なくされ、賠償金と借入金という二重の債務を負い、それが1世紀以上にわたって同国の財政を圧迫した。2 ハイチの賠償金は、今日、奴隷制と植民地主義に対する補償をめぐる議論においてしばしば引き合いに出される。それは、第A部で述べた、債務によって主権が債務者から債権者へ移転しうるという仕組みを、はるかに悲劇的な形で想起させるものである。
注
- ハイチ革命(1791年8月以降)とハイチの独立(1804年1月1日)については、ハイチ革命に関する文献を参照。要確認。 ↩
- 1825年4月17日の王令によりフランスがハイチに課した賠償金(1億5,000万フラン、1838年に9,000万フランに減額)とその支払いのために締結された借入れについては、ハイチ経済史に関する文献を参照。要確認。 ↩
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。