ロシュ:創業当初からの製薬会社
染料メーカーとして出発したチバ、ガイギー、サンドとは異なり、ロシュは創業当初から製薬会社であった。フリッツ・ホフマンは、第B部が力織機との関連で言及したリボン商人のホフマン家に1868年に生まれ、商人としての教育を受けたのち、ロンドンとハンブルクで薬品取引に従事した。1894年にバーゼルの小さな薬品会社の共同経営者となった後、1896年に自らの会社F. Hoffmann-La Roche & Coを設立した。その際、バーゼルの慣習に従い、自らの名に妻アデール・ラ・ロシュの姓を加えた。彼女はバーゼルの銀行家一族の出身であった。1
ホフマンの構想は、規格化された医薬品を工業的な規模で生産し、それを商標名の下で、医師や薬剤師に対する集中的なマーケティングを通じて多くの国で販売することにあった。19世紀末には、ほとんどの医薬品は薬剤師が個々の処方箋に従って調剤しており、その組成と品質はまちまちであった。ホフマンは、組成が保証され、商標の下で販売される工業生産の規格化製剤が、医師には信頼性を、製造者には永続的な市場をもたらすことを見抜いていた。最初に成功した製品は、咳止めシロップのシロリンと、グアヤコール製剤のチオコールであり、続いて規格化されたジギタリス製剤ジガレンが登場した。2
ロシュは当初から国際的な企業であった。フリッツ・ホフマンは1896年、バーゼル近郊の国境のドイツ側にあるグレンツァッハに工場を建設し、ドイツの関税を支払うことなくドイツ市場に供給できるようにした。最初の20年のうちに、イタリア、フランス、米国、英国、ロシアその他の国々にも子会社を設立した。同社の国際展開の資金は、一部はホフマン家が、一部は同家の取引銀行が拠出した。スイスの市場は相当規模の製薬会社を支えるには小さすぎたため、同社は当初から世界を自らの市場とみなしたスイス企業の初期の例となった。
第一次世界大戦とロシア革命は、ロシュを破綻の瀬戸際に追い込んだ。同社はロシアに多額の資産を有していたが、それは1917年以降に失われ、事業もまた戦争による混乱に苦しんだ。1919年、ロシュはバーゼル商業銀行(Basler Handelsbank)その他の投資家の支援を得て株式会社に改組された。フリッツ・ホフマンは、1920年に死去する直前に経営から退いた。3 数十年にわたり同社を率いたエミール・クリストフ・バレルの指導の下で、ロシュは立ち直り、世界有数の製薬会社となった。
1930年代、ロシュはビタミンの分野に参入した。1933年にチューリッヒの連邦工科大学で化学者タデウス・ライヒシュタインが達成したビタミンCの合成は、ロシュにライセンス供与された。ロシュは工業的製法を開発し、大規模な生産を開始した。ロシュは世界最大のビタミン生産者となり、その地位を数十年にわたって保った。4 ライヒシュタインは後にバーゼル大学に移り、副腎皮質ホルモンの研究により1950年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。ビタミン事業によって、ロシュは、20世紀における栄養水準の向上とともに需要が拡大した製品の大量生産者となった。
注
- フリッツ・ホフマン=ラ・ロシュ(1868–1920)および1896年10月1日のバーゼルにおけるF. Hoffmann-La Roche & Coの設立については、スイス歴史辞典(HLS)、項目「Hoffmann-La Roche, Fritz」、およびロシュの社史を参照。日付は要確認。 ↩
- ロシュの初期製品(チオコール、シロリン、ジガレン)および国際的なマーケティングを伴う規格化ブランド医薬品というフリッツ・ホフマンの戦略については、ロシュの社史を参照。要確認。 ↩
- 第一次世界大戦およびロシア革命後のロシュの財務危機、1919年の株式会社への改組、ならびに1920年のフリッツ・ホフマン=ラ・ロシュの死去については、ロシュの社史を参照。要確認。 ↩
- 1933年のタデウス・ライヒシュタインによるアスコルビン酸(ビタミンC)の合成、そのロシュへのライセンス供与、および主要なビタミン生産者としてのロシュの地位については、HLS、項目「Reichstein, Tadeus」、およびロシュの社史を参照。要確認。 ↩
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。