1945年以後の言語政策
併合の経験は、それ以前のいかなる主権の交代よりも深く、1945年以降のアルザスの言語に対する態度を形づくった。国民社会主義体制がドイツ語を抑圧の道具として用いたため、ドイツ語を話すこと、さらには方言を話すことさえ政治的に疑わしいものとなった。戦後、公共の場に掲げられたスローガンは、アルザス人に「C'est chic de parler français」(フランス語を話すのは粋である)と呼びかけた。数年間、ドイツ語は初等学校から排除され、初等学校はもっぱらフランス語に重点を置いた。1アルザス語を第一言語として育った多くの親は、子どもとはフランス語で話すことを決めた。その理由の一つはフランス語が社会的上昇を約束していたことであり、もう一つは方言が戦時中の重荷を背負っていたことである。
1950年代初頭からは、初等学校の最終学年に選択制のドイツ語の授業が再導入され、ドイツ語教育の限定的な復活が続いた。1970年代および1980年代以降、地域の教育当局であるAcadémie de Strasbourgは、地域語としてのドイツ語の教育のためのプログラムを開発し、1990年代以降は、授業の半分を標準ドイツ語で行う公立学校の二言語コースを開発した。21963年のエリゼ条約によって確定されたフランスとドイツの和解は、ドイツ語に付着していた政治的な汚名の多くを取り除いた。しかし、それはすでに動き始めていた家庭における方言の衰退を逆転させるものではなかった。
注
- 初等学校におけるドイツ語教育の廃止および「C'est chic de parler français」キャンペーンを含む1945年以降のアルザスにおける言語政策については、アルザスの社会言語学に関する文献を参照。要確認。 ↩
- アルザスの初等学校におけるドイツ語教育の再導入(1972年の「Holderith改革」およびAcadémie de Strasbourgのその後のプログラム)については、アルザスにおける地域語教育に関する文献を参照。詳細は要確認。 ↩
本記事は一般的な情報提供のみを目的としています。法律上または税務上の助言を構成するものではなく、個別案件に関する助言に代わるものでもなく、弁護士と依頼者との間に委任関係を生じさせるものでもありません。本記事は2026年10月時点の法的状況を反映しています。