ヨハネス・エコランパディウス
バーゼルにおける宗教改革の指導者はヨハネス・エコランパディウスであった。その名は、彼のドイツ語名ハウスシャイン、あるいはホイスゲンとも言われる名を、ギリシア語に置き換えたものである。1482年にヴュルテンベルクのヴァインスベルクに生まれた彼は、ハイデルベルク、ボローニャ及びテュービンゲンで学び、ギリシア語とヘブライ語の学者となった。1515年と1516年にはバーゼルでフローベンの校正者兼編集者として働き、新約聖書の校訂版についてエラスムスを助けた。アウクスブルクでの説教者時代と修道院での短い滞在を経て、1522年にバーゼルに戻り、改革運動に加わって、大学の神学教授及び聖マルティン教会の説教者となった。1
エコランパディウスは大いなる学識を備えた学者であり、穏健な気質の説教者であった。その神学は、彼が文通し協力したツヴィングリの神学に近かった。1520年代に改革者たちを分裂させた聖餐をめぐる論争において、彼はルターに対してツヴィングリの側に立ち、パンとぶどう酒はキリストの体と血のしるしであると論じた。彼はまた、ルターとツヴィングリがこの問題について合意に至らなかった1529年のマールブルク会談にも参加した。1526年には、アールガウのバーデンにおける討論会で改革派を代表し、カトリックの神学者ヨハン・エックと論争した。主催者の判定ではこの討論会はカトリック側の勝利に終わったが、改革派の間でのエコランパディウスの名声を高めることとなった。2
エコランパディウスは教会の組織者でもあった。彼は、悔い改めない罪人を共同体が聖餐から排除することを可能にする教会規律の確立を目指した。彼は、この規律は教会自身が、共同体から選ばれた長老を通じて行使すべきであると主張した。バーゼルの参事会は、チューリッヒやベルンの参事会と同様に、規律を自らの手にとどめておくことを好んだため、エコランパディウスの構想は部分的にしか実現しなかった。それは後にカルヴァンに影響を与えることになる。姉妹編で述べるとおり、カルヴァンはジュネーブに、参事会から独立して規律を行使する牧師と長老の長老会(コンシストワール)を設立した。
注
- ヨハネス・エコランパディウス(1482–1531年)の経歴、フローベン及びエラスムスとの仕事、並びにバーゼルの宗教改革者としての役割については、HLS, article "Oekolampad, Johannes"を参照。要確認。 ↩
- エコランパディウスがヨハン・エックと論争したバーデン討論会(1526年5月–6月)及びマールブルク会談(1529年10月)については、HLS, articles "Badener Disputation" and "Marburger Religionsgespräch"を参照。要確認。 ↩
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