司教の貨幣からラッペン貨幣同盟へ
司教の貨幣鋳造権は14世紀に市へと移った。1373年、司教は造幣所をバーゼル市に質入れし、以後は市が貨幣鋳造権を行使した。1 質が請け戻されることはなかったため、貨幣鋳造権は事実上市の権利となった。この移転は、多額の債務を負った司教たちがその権利を市に質入れし、または売却したより広範な動きの一部であった。この過程については本章の末尾で検討する。
造幣所の獲得により、市は独自の通貨政策を追求できるようになった。バーゼルの市民と商人は、市の城壁を越えて受け入れられる安定した信頼できる通貨に利益を有していた。この利益は、ライン川上流の他の諸都市も共有していた。これらの都市の市場は密接に結びついており、その商人たちは地方貨幣の多様性と、造幣領主が頻繁に行う改鋳による品位低下とに苦しんでいたからである。その答えが通貨同盟であった。
1377年、バーゼル市、ブライスガウ、ズントガウおよびアルザスの広い地域を支配していたハプスブルク家のオーストリア公、そしてこの地域の他の領主や都市は、共通の基準による貨幣を鋳造する協定を締結した。1403年には、ハプスブルク家の保護の下で、バーゼル、フライブルク・イム・ブライスガウ、コルマールおよびブライザッハの間で正式な通貨条約が締結された。ラッペン貨幣同盟(Rappenmünzbund)として知られるこの同盟は、加盟者が鋳造する貨幣の重量と品位を定め、銀価格に合わせて基準を調整するために代表者の定期会合である貨幣会議(Münztage)を開催し、貨幣の品質を監督した。2
同盟の名は、鷲の頭を描いたフライブルクのペニヒ貨に由来する。この貨幣は、利用者には鷲がカラスに見えたことから、俗にラッペン、すなわちカラスと呼ばれていた。この名称は同盟全体の貨幣に広がり、同盟そのものよりも長く生き残った。フランス語でサンチーム、イタリア語でチェンテージモと呼ばれるスイスフランの100分の1は、ドイツ語では今日でもラッペンと呼ばれている。ドイツ語圏のスイス人がラッペンで支払うたびに、その人は、バーゼルが主導的加盟者であったライン川上流諸都市の通貨同盟にさかのぼる言葉を使っているのである。
ラッペン同盟は、16世紀の新しい銀貨と加盟者間の政治的分岐の圧力の下で解体した1584年まで存続した。それは、経済空間を共有する独立した政治主体の間の通貨協力の初期の例である。それは、交易にとっての共通通貨の利益、加盟者が異なる財政需要に直面する場合に共通基準を維持することの難しさ、そして定期的な協議と監督の重要性を示している。これを、スイスが原加盟国であった1865年のラテン通貨同盟やユーロの先駆けと呼ぶのは時代錯誤であろう。しかし、それが直面した問題は、紛れもなくあらゆる通貨同盟の問題である。すなわち、共通の規律と各国の利益との緊張、貨幣の品位を下げる加盟者によるただ乗りのリスク、そして変化する状況に合わせて基準を調整する制度の必要性である。3 中央銀行総裁たちがまさにこれらの問題を議論するために集う国際決済銀行(BIS)の所在地としてのバーゼルの後の役割は、ラッペン同盟に、振り返ってみればある種の響きを与えている。
注
- 1373年にバーゼル市が司教ヨハン・フォン・ヴィエンヌから貨幣鋳造権を獲得したことは一般的な文献に記されている。スイス歴史事典(HLS)の項目「Basel (Gemeinde)」の中世後期に関する節、Wackernagel, vol. 2/1, 1911 を参照。日付および法的形式(質入れか売却か)は要確認。 ↩
- ハプスブルク家の保護の下でのバーゼル、フライブルク・イム・ブライスガウ、コルマール、ブライザッハその他の加盟者によるラッペン貨幣同盟(1377年/1403年~1584年)については、HLS の項目「Rappenmünzbund」を参照。年代は要確認。 ↩
- 1865年12月23日のラテン通貨同盟(ベルギー、フランス、イタリア、スイス。ギリシャは1868年から)については、19世紀の通貨史に関する文献を参照。スイスは1927年をもって同盟を脱退した。 ↩
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