宗派の間で
宗教改革は、エラスムスが避けようとした選択を彼に突きつけた。初期の改革者の多くは彼の崇拝者であり、彼を先駆者とみなしていた。教会の濫用に対する彼の批判、ギリシア語新約聖書の校訂版、そしてキリスト教の源泉への回帰の呼びかけは、改革運動の地ならしをしていた。エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵したと言われた。しかしエラスムスはルターに加わることを拒んだ。教会の一体性に執着し続けた彼は、ルターの言葉の激しさと奴隷意志の教説を退けた。彼はまた、宗教改革が無秩序と戦争につながることを恐れた。1
1524年、カトリック側からの圧力の下で、エラスムスは論考『自由意志について』を公刊し、ルターの恩寵の教説を攻撃した。ルターは『奴隷意志について』で応じた。この論争は二人の関係を終わらせた。同時に、エラスムスは、宗教改革を引き起こしたとして彼を非難するカトリックの神学者たちからも攻撃された。彼は両陣営の間に立たされ、双方から批判され、いずれからも信頼されなかった。
バーゼルでは、1520年代に旧信仰と新信仰の間の緊張が高まった。同年2月の聖像破壊の後、1529年に市参事会が宗教改革を採択すると、エラスムスは去ることを決意した。彼は教会と決別した都市に住むことを望まず、自らの安全と独立を危惧した。彼はフライブルク・イム・ブライスガウに移り、そこで6年間暮らした。彼の離去はバーゼルの威信にとって打撃であったが、彼は市及び同地の友人たちとの関係を維持した。彼の著作は引き続きフローベン家の印刷所によって印刷された。
宗派間におけるエラスムスの立場は、様々に解釈されてきた。すなわち、臆病として、思慮として、キリスト教の一体性という理想への忠誠として、あるいはいかなる党派にも取り込まれることを拒む知識人の独立としてである。それは、スイスがヨーロッパの紛争において採用することになる中立とある種の類似性を持つ。中立者は一方に与することを拒み、すべての当事者と関係を維持し、すべての者に自らの役務を提供する。あらゆる側から批判され、いずれからも保護されない中立者は、当事者にとっての自らの有用性と自らの信用に依存する立場を占める。三十年戦争から第二次世界大戦、そして今日の制裁制度に至るスイスの中立の歴史は、この立場の便益と費用を示している。エラスムスはその双方を経験したのである。
注
- エラスムスと宗教改革との関係、ルターとの論争(De libero arbitrio, 1524、ルターのDe servo arbitrio, 1525)、及びエラスムスが卵を産みルターがそれを孵したという言葉については、エラスムスと宗教改革に関する文献を参照。要確認。 ↩
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