国外のバーゼル資本
18世紀、バーゼルの商人と門閥は、市とその地域で利益を上げて投資できる以上の資本を蓄積した。地域経済は小さく、土地市場は限られ、新産業の機会はギルド制度によって制約されていた。余剰資本は国外に投資先を求め、それを主としてヨーロッパ諸国の公債と大商事会社の株式に見出した。1
フランスが主要な投資先であった。フランス王室は18世紀を通じて、永久年金や終身年金、パリ市、ラングドック州三部会およびブルターニュ州三部会からの借入れ、その他の経路を通じて多額の借入れを行った。ジュネーブ人やバーゼルの門閥を含むスイスの投資家は、フランスの債務を大量に購入した。姉妹巻が記述するとおり、ジュネーブの銀行家はフランス王室の終身年金を専門とし、王室年金の価格設定の誤りを利用するために、選ばれた若いジュネーブの少女たちの生命に基づく年金のプール、すなわち有名な「ジュネーブの30人の乙女」のような巧妙な仕組みを考案した。バーゼルの投資家も、より小規模ではあったが、これらの取引に参加した。
ネーデルラント、イングランドおよびオーストリアも投資先であった。その金融市場が17世紀から18世紀初頭にかけてヨーロッパで最も発達していたネーデルラント連邦共和国は、州や都市の債券およびオランダ東インド会社の株式を提供した。イングランドは、17世紀後半の金融革命と1694年のイングランド銀行の設立の後、政府公債(ファンド)、ならびにイングランド銀行、東インド会社および南海会社の株式を提供した。オーストリアは、ウィーン市立銀行を通じて、またアムステルダムとジェノヴァで募集された借入れを通じて資金を調達した。
これらの投資は、バーゼルの資本を外国の主権者のリスクにさらした。1720年のフランスにおけるJohn Lawのシステムの崩壊と、同年のイングランドにおける南海泡沫事件の破裂は、スイスの投資家に損失をもたらした。フランス革命ははるかに大きな代償をもたらした。フランス国家は1797年、いわゆる「3分の2の破産」において、その債務の3分の2を履行拒否したのである。革命の紙幣であるアッシニアは、その価値のほぼすべてを失った。フランスの年金と債券を保有していたスイスの投資家は、その資本の大部分を失った。2
これらの損失の経験は、対外投資に対するバーゼルのエリート層の態度を形作った。それは彼らに、大国の公債は安全ではないこと、政治的激変は財産を破壊し得ること、そして分散と慎重さが不可欠であることを教えた。それはまた、外国証券の評価と国際ポートフォリオの管理に関する専門知識を彼らに与え、彼らはのちにそれをサービスとして顧客に提供することになる。19世紀のバーゼルのプライベートバンクは、これらの損失から学んだ慎重さと、これらの投資が必要とした国際的な知識とを結びつけていた。
注
- 18世紀におけるスイス資本の対外投資(フランス、ネーデルラント、イングランド、オーストリアの公債;商事会社の株式)については、18世紀のスイスの資本輸出に関する文献(例えばBanque protestanteに関するHerbert Lüthyの著作)を参照。要確認。 ↩
- Lawのシステムの崩壊(1720年)、南海泡沫事件(1720年)および1797年のフランス国家破産(banqueroute des deux tiers)におけるスイスの投資家の損失については、18世紀の金融とスイスの投資家に関する文献を参照。要確認。 ↩
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