公会議後のバーゼル
公会議が去った後の数年間は、バーゼルにとって困難な時期であった。1444年のアルマニャック軍の侵入は市の周辺を荒廃させていた。公会議の期間を通じて続いていたハプスブルク家及び地域の貴族との対立は、1444年以後の数年間に公然たる戦争へと発展し、バーゼルはズントガウ及びブライスガウのオーストリア系貴族と戦った。城は包囲され、村は焼かれ、交易は途絶した。和平は、公会議が終結した年である1449年にブライザッハで締結された。1
市の財政はその費用を負担した。戦争は、公会議期の収入が消滅した時期に、兵士と補助金を必要とした。市はさらに多くの定期金を売却し、債務を増やした。それでも、市が築いてきた制度的能力、すなわちその会計、定期金市場、通貨に対する統制によって、市は危機を乗り切ることができた。Harmsが分析した市の会計は、1440年代及び1450年代の困難な時期を通じて、市が債務の元利払いを継続したことを示している。
市はまた、公会議から教訓を引き出した。学問と国際的交流の中心であることの便益を目の当たりにした市は、それを保持しようとした。市が1459年にピウス2世に提出した大学創設の発議は、この戦略の一環であった。大学は学生と学者を市にもたらし、恒久的な知的機関を生み出し、公会議の盛衰に左右されない威信を市に与えるであろう。大学はまた、市と地域が必要とする法律家、医師及び聖職者を養成するであろう。市は大学を自らの資金で賄う用意があり、実際にそうした。次章ではこの決定とその帰結を考察する。
公会議後の時期は、バーゼルの戦略的方向転換の始まりでもあった。ハプスブルク家及びオーストリア系貴族との対立、ザンクト・ヤーコプ・アン・デア・ビルスの経験、そしてスイス盟約者団の勢力の伸長は、市を盟約者団の側へと引き寄せた。14世紀以来バーゼルが断続的に追求してきた盟約者団との同盟は、市の安全保障の基盤となり、ブルゴーニュ戦争及びシュヴァーベン戦争の後、1501年の盟約者団への加盟につながった。
注
- 1444年以後のバーゼルとオーストリア系貴族との戦争及びブライザッハの和約(1449年)については、スイス歴史事典(HLS)の項目「Basel (Gemeinde)」の15世紀に関する節、Wackernagel, vol. 1, 1907を参照。要確認。 ↩
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