アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニとバーゼルのイメージ
公会議の参加者の中に、シエナ出身の若き人文主義者アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニがいた。彼は1432年にある枢機卿の秘書としてバーゼルに来て、後に公会議とフェリクス5世に様々な立場で仕えた。才能ある文筆家であったピッコローミニは、バーゼルについての記述を残しており、それはこの都市の最も初期の文学的肖像の一つである。彼は、その清潔な街路、堅固に建てられた家々、教会、庭園及び統治の秩序を称賛し、市民を、いささか堅苦しいものの、誠実で敬虔かつ思慮深い人々として描いた。1
ピッコローミニは後に立場を変えて教皇庁と和解し、司教、枢機卿となり、1458年にはピウス2世の名で教皇となった。教皇として、彼はバーゼルを忘れなかった。1459年、彼は同市の要請に応じてバーゼル大学の創設を認可する大勅書を発し、同大学は1460年に開学した。こうして、若き人文主義者をバーゼルに連れて来た公会議は、間接的に、バーゼルを学問の中心地とすることになる機関の創設につながったのである。第V章ではこの創設を考察する。
ピッコローミニの記述は、外国人を受け入れる都市にとっての評判の重要性を示す初期の例でもある。彼の書簡はイタリア及びヨーロッパの人文主義者の間で回覧され、清潔で秩序正しく、よく統治された都市というバーゼルのイメージを形成した。今日まで生き続けているこのイメージは、金融センターの無形資本の一部である。住民が誠実さ、思慮深さ及び善き統治で知られる都市は、人と資金を引き寄せる。スイス金融センターが2世紀にわたって顧客に売り込んできた、信頼性、秩序及び慎重さというスイスの諸都市の評判は、その最初の文学的表現の一つを、公会議のためにバーゼルに来た若きイタリア人文主義者の書簡に見いだすのである。
注
- アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニによるバーゼルの記述は、通常1434年及び1438年のものとされる二通の書簡に見られる。その書簡の諸版及びスイス歴史事典(HLS)の項目「Pius II.」を参照。日付及び内容は要確認。 ↩
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