農村部と対立する都市
1833年夏、バーゼル市の武装した男たちが、農村住民の反乱を鎮圧するために田園地帯へ進軍した。8月3日、プラッテルン近郊のヒュルフテンシャンツェにおいて、彼らは農村の民兵と交戦し、多大な損害を出して敗北した。数週間のうちに、スイス盟約者団の盟約者会議(Tagsatzung)は、バーゼル州(カントン)を二つの準州に分割することを決定した。すなわち、市とライン川右岸のいくつかの村からなるバーゼル=シュタット州と、残りの農村地域からなり、リースタールを州都とするバーゼル=ラント州である。1 暫定的なものとされたこの分割は、今日まで続いている。
この対立の根は何世紀もさかのぼる。第A部では、市がいかにして購入と質入れによってその農村領域を獲得したかを述べた。続いて第C部では、市のリボン商人が問屋制の下で何千人もの農村の織工の労働をいかに組織したかを示した。1798年のヘルヴェティア革命は農村住民に政治的平等を認めていたが、1814年の復古は市に再び支配的地位を与えた。復古期の憲法の下では、人口の少数派である市が州議会の議席の過半数を占めていた。市の商人に対する織工の経済的従属は、政治的不満をいっそう強めた。
1830年のパリの七月革命がヨーロッパ全域に自由主義運動の波を引き起こすと、バーゼルの農村住民は平等な代表権を要求した。市はこれを拒否し、交渉は決裂し、対立は1831年と1832年に武力衝突へとエスカレートした。盟約者会議は調停を試みたが、成功しなかった。1833年8月の市の部隊の敗北により、ついに決着が迫られた。連邦の部隊が州を占領すると、盟約者会議は分離を命じた。
注
- バーゼル市とその農村地域との対立(Basler Wirren、1830–1833年)、1833年8月3日のヒュルフテンシャンツェの戦い、および州の分離に関する盟約者会議の決定(1833年8月)については、スイス歴史辞典(HLS)の項目「Basler Wirren」および「Basel-Landschaft」を参照。年代は要確認。 ↩
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